悲しみに痛みを感じて

新型コロナウイルスの第四波が襲う五月、私の外来に通うCさん(仮)が新型コロナウイルスで亡くなった。そのころ関西圏では重症化しても入院できない事態に陥っており、Cさんも入院できず自宅で亡くなったと連絡があった。私自身、医療崩壊の危機と報道では聞いていたが、いざ身近に本当に入院できずに亡くなるという事態を目の当たりにして、やっと危機感を肌で感じたのであった。

介護してきた娘さんからのお電話でそのことを聞いた。娘さん自身も新型コロナに感染し自宅療養中で、電話で申し訳ないといいながら、これまでの御礼のことばをいただいた。私は、何もできなくて申し訳ないということ、Cさんに出会えてよかったというようなことを言うのが精一杯であった。娘さんは涙を流されて、お父様を亡くした悲しみだけではなく、入院できていればまだ生きられたのではないかと悔しさをにじませておられた。持病があるといっても認知症であり、身体に大きな問題はなく、前回受診されたときもいつもどおり元気に歩いて来られた。入院さえできていればと、医師として私も悔しく思った。

自宅療養の不安の中、亡くなっていかれたCさん。どうしようもなくご自身も感染の不安の中で見守るしかなかった娘さん。これまで外来では、認知症のため、お父様の症状にご苦労されている娘さんの相談をしばしば受けてきた。しかしそんな中でも、なんとか向き合おうと懸命になっておられた姿を見てきた。ときには少しよくなりましたと安心されるときもあった。新型コロナという病は、そんな苦しみも喜びも、すべてを飲み込んでいった。

そんな悲しみに何の痛みも感じずに、わかったようにして、感染対策などそこそこでいいとする態度が溢れていることは残念なことである。悲しみに何の痛みも感じずに、わかったようにして、緊急事態宣言など政治家が医者からさせられているんだ、仏法さえ聞いていればいいとするような態度が仏教者にもあるなら、それはなおさら残念なことである。悲しみに痛みを感じずに仏法は聞けるのだろうか。苦しみも喜びも、すべてを飲み込んでいくような老病死の苦悩を如実に知り、その苦悩の真っ直中を生き抜いた者こそ仏陀ではなかったのか。そこから出発しない仏教は仏教なのだろうか。

そしてその批判はそのまま自分に向かう。現実の生活の姿を見失い、現実の群生海の痛みを感じずに仏法を聞いていないか。ふとしたきっかけで、以前修練道場で聞いた、当時道場長であった渥美雅己先生の講義を記したノートを見直していると、このように語られていた。

・・・さらに曾我先生は『異なるを歎く』において、機の深信の自覚を語られ、「口先だけの説法」であり「自分の頭の分別」に陥り、教えが自分の生活になっていない深い懺悔を表白されます。人間の根っこ、心の奥底に届く教えとして、うけとめられていなかったとのことでしょう。教えを理知、理性によってのみ理解し、生き生きと身も心も発動される、まことの響きを感じとれず、現実の生活の姿を見失って、気づけなかった慙愧であると思います。それほど現実の群生海は感じとれないということでしょう。これらは浄土の真宗、他力によって開かれる世界です。「他力は、自己を否定するのものではない。かえって自己を成就するものである。自己は自力では成就しないのである」(安田理深)といわれます。そしてつまり、修練を通して、我われの聞法姿勢の確認として、たとえ未熟であり稚拙であろうとも、けっして粗雑であってはならない、との具体的な生活の中での教示として、私は受けとめるものです。(2010年前期修練の道場長講義)

「たとえ未熟であり稚拙であろうとも、けっして粗雑であってはならない」十一年の時を隔ててあらためて呼びかけられる。私はさまざまな聞法の中で、文学や哲学の素養がなく、教学を知らない未熟さを恥じていたが、もっと恥じなければならないことは、仏法を聞く姿勢であった。現実の生活から紡ぎ出される言葉に、どこまでも丁寧に向き合う中に仏法を聞いていかなければならないと、姿勢をただされたように思う。

[『崇信』二〇二一年八月号(第六〇八号)「病と生きる(69)」に掲載]