当直中、看護師から電話が鳴った。患者さんがなかなか部屋に戻らず、不穏な状態で困っているとのことであった。この病院では、体調のよい方はデイルーム(談話室)でテレビを見ながら、一緒にご飯を食べるようにしている。食事が終わってからも興奮気味で、話が通じないということのようである。
病棟に行くと、介護スタッフが少しイライラした様子で部屋に戻るように促していた。確かに興奮した様子であったので、少し二人だけにしてもらい、お話をした。そうするとどうも、部屋に爆弾が仕掛けられている、と言うのである。話があちこちに飛ぶので内容をつかみにくいが、しきりに爆弾の話をされ、その間に自動車の話が混じる。過去の事故の記憶が出てきたのかと思い尋ねてみたが、そういうわけではないらしい。
ともかく、爆弾があるのは危ないから見てきますと言って、一旦その場を離れた。その間に少し気になって生年月日を調べに行った。戦争の記憶が戻って不穏になるという話を介護の本で読んだことあったので、終戦時の年齢が気になったのであった。昭和十七年生まれとある。終戦は昭和二十年だから、そのころは三歳である。少し幼すぎるか。次に戦争ということでふと頭に浮かんだのは、ウクライナの戦争である。ひょっとしてテレビでウクライナの悲惨なニュースを見たのではないか。あれこれと考えながら、患者さんのところに戻った。もし爆弾はなかったと言うと、ご本人の言い分を否定するようであったので、こう言った。「爆弾はちゃんと処理しておきました」と。そうするとみるみる表情が柔らかくなって、「聞いていただけてよかった」と安心されたご様子であった。その後は鎮静剤を使うこともなく休まれた。
さて、はたしてこれでよかったのだろうか。一般的には適切に対応した例として紹介されるような話かもしれない。しかし、よいことをした気になりそうな中で、釈然としないものが残る。このことを考えながら、たまたま機会があって『死者の力—津波被災地「霊的体験」の死生学』を読んでいると、こんな話が出てきた。
東日本大震災で傾聴活動をしている僧侶が、ある男性に「霊に取り憑かれているようだ」と相談を受けた時の話である。その僧侶は丁寧に話を聞かれ、津波で亡くなった人の中でちゃんと供養できてない人はいないかと問いかけたという。そしてその人の名前を挙げてもらい、般若心経を唱えて供養を行ったところ、「楽になりました」と言われたという。そこでは「儀礼の効用」ということが語られていた。
まず、供養という言葉が使われてきた歴史を顧みず、大事な意味を確かめることなく、このように使われてしまっていることも大問題なのであるが、それはここでは置いておく。津波で大勢の人を亡くした悲しみに寄り添おうとする、僧侶の真摯な活動を批判するわけではないが、般若心経を唱えて「楽になった」ということが、よいことであるかのように語られていることに大きな疑問を抱いた。いや、疑問というより、一人の人間の悲しみが軽んじられたような思いさえ抱く。
しかし、私が病棟でしたように、”爆弾処理班”になって安心してもらうことも、なにか共通する「ごまかし」があるように思えてならない。一人の人間の苦悩の心に触れたとはとてもいえないではないか。実は、抗うことのできない圧倒的な力に恐怖されていたのではないか。それが戦争なのか、介護者の圧力なのか、老病死なのかはわからない。有無を言わさず自分を傷つけ奪っていくようなものの前に立ち尽くす。私も同じように怯える弱い人間であることを忘れ、それをどう乗り越えて一人の人間として生きるのかという難問を共有せずして、「儀礼の効用」だけを語るのはとても空しい。
しかし、私が実際にできたことは前述の通りである。ただ、もしそこに、人間がもつ根源的な問いを共有し、さまざまな境遇の違いを超えて、同じ人間として、生きることを一緒に確かめていくような「僧伽」があれば、偽ヒーローは必要なかったのかもしれない。
[『崇信』二〇二二年八月号(第六二〇号)「病と生きる(81)」に掲載]
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