人生に喜びはあるか―医療現場の問いと仏教の問い―(1)

(2022年3月26日に行われた『崇信』巻頭言同人会の講話を、『崇信』編集者に文字起こししていただいたものです。)

はじめに

 みなさん、こんにちは。直接お会いすることはなかなかありませんし、昨今の新型コロナの状況でますます直接お会いする機会が減ってしまいました。けれども崇信誌の上では、みなさんの書かれたものを読ませていただいたり、読んだことに影響を受けて、いろいろ確かめたりして、ある意味では普通にお会いする以上の交流をさせていただいているのかもしれません。
そんな中で、皆さんの前でこうしてお話しする機会をいただいたのですが、お話しするのは大変苦手というか、自分が話しするようなことは何もなくて、自分が話すよりも、皆さんのお話を聞かせていただく方がいいと思ったりするわけです。いつも私の書いたものを読んでいただいている皆さんは、毎月いろいろ書いているんだから、いろいろ話すこともあるだろうと思われるかもしれませんが、それはいろいろなことが起こるから書けるのであって、私自身には何もないというふうに思ってしまいます。
 それに話すこともそうですが、書くのもやっぱりこわいですね。崇信誌のほうでは、いままで「病と生きる」というタイトルで、二〇一五年の九月から書かせていただいていると思いますので、かれこれ七年近くなるわけですが、みなさんにどう受けとめられているのか、ときどき宮森先生からお便りをお知らせいただくのですが、お話しするのもそうですが、書くのもある意味ではとてもこわい。語れないことを語ってしまっていないか、語りすぎていないか、ということがあります。これは児玉先生が、どこかでいわれていたことだと思いますが、医者は間違った薬を出したり、間違った処置をしたら、人を殺してしまうことがある。お坊さんは間違った説教をしたら、いのちを殺してしまう、というようなことをいわれていたと思います。自分の書いたもので誰かが傷つくことにならないか、いつも心配しています。だから人前で話す、何かもっともらしいことを話すということはこわいことです。
 しかし、実際に自分の目の前で日々起こる出来事に対して、何も語らないのも無責任という面もあろうかとおもいます。私が日々出会う出来事の場面一つ一つは、その瞬間の私にしか受けとめられないことですから、私はどう受けとめるのかということを丁寧に確かめて、それをお話しするということもときに必要なのかとも思います。それに自分に何もない、資格がない、自分が浅いというならば、それは深いものに出会っていなければいえないわけですので、その出会いを語らないといけないと思います。そういうわけで、今日のお話が仏教ということになるのか、あるいは信仰告白、というようなことになるかどうかわかりませんが、そういう思いで臨みたいと思います。
 それでどういう人間がどう受けとめるかということを確かめるためには、少し自分自身のおいたちなども振り返っておいたほうがいいかと思いますので、あまり改めてそういう機会もないので、少し自分でも振り返っておこうとおもいます。

幼少期の環境と出会い

 お寺に生まれたわけですが、先代の住職が、寺の敷地の中に老人ホームをつくった。それでいまはお寺に老人ホームがあるというより、老人ホームのなかにお寺があるような、同じ建物のようになっています。ですので、普通お寺の庫裏というと、お寺の敷地の中に、別棟にあるようなイメージだと思いますが、老人ホームの中が住まいでした。ですから、共同生活のような、廊下に出たら普通に入居者のかたがおられるという感じで、子どもの時は老人ホームの中が遊び場で、よく入居者のかたの部屋で遊んでいました。自分の家の中に他人が普通にいるという環境はあまり一般的ではないのかもしれませんが、そんな感じでした。
 それで、入居者の人以外にも、住みこみの職員さんというのか、今から思えばあの方はどういう立場の方だったのかよくわからないのですが、そういう方がおられた。このことは崇信にも書いたことがないですが、いつからおられるのか、どこから来たのか、詳しいことは全然わからないのですが、どうも若いときに精神を病んでしまい、祖父が引き取って、住みこみのお手伝いさんというか職員ということにしたらしいです。年頃になって自分の部屋を与えられたのですが、僕はその方の隣の部屋でした。独り言を言ったり、急にわらったりという声がずっと夜中もきこえていた。知らない人はびっくりするかもしれません。でもこのかたが、すごく優しい人なんですね。ときどき「飴ちゃんおたべ」といって、飴をくれる。周りのひとは、もらったものを食べてはいけないというけれど、すてられず、持っていたということがありました。こういう経験は有り難かったと思います。多くの場合は、病気、とくに精神疾患というと、「○○病の人」というのが先にきてしまって、それを通して人をみてしまう。病院に入院しても、○○さんという個人よりも前に、○○病の人が入院した、となる。そういう意味では、僕の隣の部屋にいたかたは、○○病の人、独り言を言う人、という前に、○○さんとして出会っていた。物心ついたころからおられましたから。さきに心に触れていたというか。その人が、たまたま精神疾患ももっていた、そういう出会い方だったように思います。
 ところが、医療の世界に入ると、そういうことをだんだんと忘れていってしまう。心に触れるということがどこかにいってしまう。

医療の世界へ

そういうことも確かめていきたいと思うのですが、ともかく周りがそういう環境だったということから、医療に携わりたいと思うようになったのかと思いますが、医者を志すようになりました。医者といっても、いろんな科がありますが、花形はやはり循環器とか、消化器とか、治療の成果が見えやすい科、命を救ったというのがわかりやすい科が人気ですね。つまった血管を通したとか、胃の粘膜から血が噴き出しているのを止めるとか。明らかに悪いところがあって、それをよくする、治す、という。内科全般を研修するので、そういうことをやっていた時期もありましたが、たしかにやり甲斐がある。しかしそういう科ではなく、私が選んだ脳神経内科という科は、治る病気もありますが、なかなか治らない難病が多い。そして生活に直結する。歩けなくなると家にも帰れない。玄関に段差があるのか、マンションの何階か、一人暮らしなのか、誰かと一緒なのか、そういうことも考えないといけない。病を抱えてどう生きていくのか、ということを考えざるを得ない。そんな科ですね。そういうことを意識して選んだのかどうか、当時のことはあまりはっきり覚えていませんが、ともかくそういう科を選びました。

医療の現場にでて

 それで実際に医療の現場にでますと、思った以上に過酷でした。生の声というのは非常に厳しいものがある。生きるか死ぬかというところを文字通り救わないといけないということもあるし、非常に重い障害を抱えて生きていかなければならないという姿をみる。
 とくに今日は、崇信にもたびたび書いていますが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)と言う病気を話題の中心にしたいと思っていますが、大変重い病気です。全身が動かなくなる。手が使えない、歩けない、というだけでなく、全身ですから、食事もできなるなく、話せなくなる、呼吸もできなくなる。目しか動かないという状態になる、それも動かなくなって、全く閉じ込め状態ということになる。しかし思考する、感受することはできる。だから、いろんな問題がおこってくるし、それに対してどう感じておられるのかということを、話せるうちはそういう心境をお聞ききすることも多い。厳しい状況にたいして、もちろん自分が向き合っているわけではないけれども、どうすればいいか、真剣に考える。真剣だからこそ逆に、傲慢にもなる。なにか自分はリアルなものを見ているんだという、自信というか、うぬぼれというか、そういうものもでてくるわけです。
 大学病院にしばらくいましたが、とくに大学病院というところは、臨床も研究もします。患者さんを担当し、同時に研究もする。病気について徹底的に勉強するし、患者さんの声も聞く。そうすると、病気についてよく知っていて、患者さんの声もよく聞いているというつもりになります。
けれどもその自信が崩されるというか、破られることばをかけられました。あるALSの患者さんにかけられた一言がずっと残っています。「あなたにはわからない」という言葉です。何を知ったつもりになっていたのか、声を聞くといって、いったい何を聞いてきたのか、そういう自分が積み重ねてきたものが崩されるということがありました。(続く)

[『崇信』二〇二二年五月号(第六一七号)に掲載]