如来の悩み

安田理深先生は「『願生偈』聴記」で、このように述べられる。

浄土は、相から出発するところにはない。相を果とするところの因位、その果となるところの相なき相から出発するところに、あるのである。人間的悩みから出発するのではない。もっと深い如来の悩みから出発するのである。(『安田理深選集第九巻』二三〇頁)

人間は人間的悩みから出発するしかないのではないかと最初は思ったが、その後しばらく思いを廻らしていると、確かに我われの日常の悩みからは、取りかかることすらできない問題があると知らされる出来事があった。

ここ数ヶ月外来に通う七十代の女性のことである。物忘れがすすみ、歩行もふらつくようになってきたため、私の外来を受診された。小脳失調と記銘力障害を認めた。神経難病や認知症の診察では、治療可能な病気を見逃さないようにすることが重要である。治療できない病気と見なされてしまうと、適切な治療を受ける機会を失うからである。そこで血液検査をしたところ、ビタミンB1と葉酸が低値であることがわかった。ビタミンB1が欠乏すると小脳失調や意識障害をきたし、葉酸が欠乏すると認知機能障害や末梢神経障害をきたす。日ごろ食事量が少なく、多量に飲酒していることが原因であった。

そこでビタミンB1と葉酸の補充療法を開始した。すると、物忘れもふらつきも明らかに改善していった。ご家族はたいへん喜ばれた。ご本人に何か困っていることはないかと尋ねると、特にないと言う。しかしあまり浮かない顔をされているのが気になっていた。

別の日に同じように尋ねると、その日はいつもと返事が違った。「よくなっているし困っていることはないんですが、生きることがつらいですね」と軽い調子で言われた。そのとき、ふと先ほどの「人間的悩みから出発するのではない。もっと深い如来の悩みから出発するのである」という一節を思い出した。今その「深い如来の悩み」が「生きることがつらい」という言葉として現れ出たのではないか。

これは大事な問いが出されたと思い、「それは誰もが抱えている問題で、とても大事なことをおっしゃったと思います」と私は真剣に話したつもりであったが、「そんな大げさな、茶化さないでください」と笑い飛ばされた。物忘れや歩きにくいという日常の不満である「人間的悩み」は解決しつつある。それは医学の問題領域であるが、それをいくら深めても、「生きることがつらい」という問題については、出発することすらできない。それは単に不満から来る悩みではないような「深い如来の悩み」であり、それこそが仏教の問題領域なのではないか。しかしそこにはなかなか踏み込めない。

安田先生は、「叫んでいるものこそが、欲生我国である。その叫びを明らかにするものが、二十九種荘厳である」(同上)と言われ、また「二十九種荘厳は、成った如来を表わすものである。荘厳ということは、成った如来ということである。しかもそこには容易ならぬ歴史があるのであって、みな衆生の形を通じて荘厳されたものである」(同上、二五三頁)と述べられる。

如来成道の歴史が「容易ならぬ歴史」であって「衆生の形を通じて荘厳されたもの」であるなら、私が今、生きることに苦悩する姿を前にすることは、如来の因位を目の当たりにしているといえるか。いや、それでは、個人の思いの中で痛み喘いでいる現実をただ肯定するだけではないか。ただ叫んでいるだけでは「叫びを明らかにする」ことにはならない。問題が明らかになってようやく問題に取りかかることができる。自分の思いの中でしか叫ぶことのできない現実が、智慧によって破られるという、ある種の否定を通さなければ明らかにならないことがあるだろう。しかし日常会話の中では、否定されれば落ち込み、肯定されれば一時の癒やしに甘んじ、否定から明らかになったところを肯(うなず)いて歩むということになかなかならない。

[『崇信』二〇二二年十月号(第六二二号)「病と生きる(83)」に掲載]