思いもよらない理由

[この記事は『崇信』二〇二四年七月号(第六四三号)「病と生きる(103)」に掲載されたものです]

前回ご紹介した方の、その後のことである。そのご家族は、母が夜間に起きて外に出て行こうとするので目が離せないが、薬を使うのも罪の意識があるとおっしゃっていたのであった。

実はその後、その行動が徐々に激しさを増し、外に出て行き、隣の家の鉢を壊すようにまでなってしまったという。そこですぐに投薬を開始したところ、一週間程度でそのような行動は収まった。ご家族はもとの母に戻ったと喜ばれた。やはり薬が必要な時はあるのである。

本人の意思ではなく、認知症で脳が萎縮しているからそのような行動がおこると考えれば、薬によって本来の自分を取り戻したと言えるのかもしれない。しかし一方で、単に脳の異常だというだけでよいのかという疑問も残る。何か怒りのような形でしか表現できないこともまたあるのではないか、と。

出て行こうとする理由を、想像力をもって考えると、様々なことが考えられる。単に散歩したかっただけかもしれない。トイレに行こうとしたが場所がわからなかったのかもしれない。することがなくて、なんとなくさまようということもあるだろう。そこには、普通に用事がしたいだけなのになぜ皆迷惑がるのか、という疎外感があるかもしれない。

あるいは、現在の記憶が曖昧になり、過去の記憶が強調されれば、今の家は自分の家ではないと、昔の家に帰ろうとするということもあるだろう。職場に行こうとするということもありえる。子どもがお腹をすかせて待っているから帰らないといけない、ということもあるだろう。

総じていえば、誰もが確かな生きる場所を求めている、といえるのではないか。逆に言えば、今いるところが、私が私として、自由に、喜びをもって生きる、という場所になっていない。自分という存在が無条件に認められてない。束縛を感じて生きている。だから昔の記憶を頼りにしたり、時には怒りにまかせたりという形でしか表せないような、不安や抑圧を感じているのではないか。そう受けとめると、認知症だからではなく、人間であれば誰もが持ちうる苦悩であるともいえる。

このように、帰宅願望や怒りの奥に、「確かなところを生きたい」という叫びを聞かなければならない、と考えてきた。これはまず、人間の根源的な問題として大事だといっていいだろう。それは、信じられる確かなものが崩れたとき、何を信じれば再び生きていけるのか、という信仰の問題である。そして同時に、「生きたい」ということを妨げる場の問題でもある。ご家族によっては、本人の面前で露骨に迷惑だということを言う方もある。そういうときは、認知症扱いするのではなく、どういう思いなのか耳を傾けてほしい、ただここにいてくれるだけでうれしいという態度で接してほしいと訴えてきた。

しかし、先のご家族にはもう一歩踏み込んだ問いをいただく。すでに日頃のご自分を深く内省され、私のせいで家が安心できる場所になっていないのではないか、と深く悲しんでおられるのであった。そんな方に対して、確かな居場所になっていないと追究すれば、さらに追い詰めるところであった。

そして、母が出ていこうとする理由について、私が思いもよらなかったことを言われた。「ひょっとしたら、私に迷惑をかけないように出ていこうとしているのではないか」と。ときおり「自分は迷惑をかけている」と言われるのだという。その度にご家族は、そんなことないよ、いてくれるだけでうれしいよと声をかけるそうである。子の手を煩わせたくないという母と、認知症になった母という存在をありのままに受け止めようとする子との関係が、私には十分見えていなかった。互いを思いやる関係において、ともに生きられないとすれば、そこにはどういう問題があるのか。

認知症の症状について、単に脳の異常ではなく、そこに人間の根源的課題を確かめるということは重要である。一方で、脳の異常が、互いを尊重しようとする親子の間に影を落とすという面もまたある。今回は幸い、投薬によって皆が心の余裕を少し取り戻した。しっかり治療をしつつ、そこにある揺れ動く心と、その奥底に流れる願いとともにありたいと思う。

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