[この記事は『崇信』二〇二四年十二月号(第六四八号)「病と生きる(107)」に掲載されたものです]
中村哲氏は、パキスタンとアフガニスタンで病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた医師である。大干ばつで農業が壊滅し、渇きと飢えで生きていけない状況を見た中村氏は、医療以前に水が必要だと、用水路建設を決断する。米軍の戦闘ヘリが飛び交う中で土を掘り、石を運ぶ。「彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る」と。『荒野に希望の灯をともす』(二〇二一)は、医療の枠組みに収まらず、平和とはなにか、人間はどう生きるべきか、ということを考えさせる映画であった。
中村氏は、アフガニスタンの難民キャンプから来たハリマという患者に出会う。彼女はハンセン病に伴う呼吸困難と肺炎に苦しみ、「殺してくれ」と懇願する日々が続いた。中村氏は気管切開に踏み切り、彼女は呼吸困難からは解放されたものの、それでよかったのかと悩む。「自分もまた、患者たちと共にうろたえ、汚泥にまみれて生きてゆく、ただの卑しい人間の一人に過ぎなかった」という言葉から、ともに苦悩する姿が垣間見える。一方で、ハリマが気管切開の部位をおさえながら談笑し、プレゼントのケーキを食べる姿をみて、「そこに命あることの楽しさを思い起こせばそれでよかった」「患者たちとハリマの笑顔が何より代えがたい贈り物だ」という。たすける側に立つと言うより、患者の苦悩に自分の苦悩を見、そして患者から生きる喜びをもらう、そういう中村氏の姿勢に感銘を受けた。
そこからは人間が生きるということの根源を求める心を感じた。それは中村氏の様々な行動に表れている。診療所が武装集団に襲撃されたときも、抗戦を許さず、原因は流行しているマラリアにあると見て、特効薬を大量に仕入れて命を救う。暴力に対して暴力で対抗するのではなく、その背景を見る。だから大干ばつに際して、医療の前に生きるための根源である水を求めたことは必然であったのかもしれない。
今の日本には水がある。喉の渇きが満たされないことはない。マラリアの流行もない。しかし生命としては生きているのに、私が私として生きていけなくなるとすれば、そこにはいかなる渇きがあるのか。医療以前に人間として生きることを支える根源とは何か。それは釈尊が「縁起の観察」において、老病死の苦悩はどこからくるのか、という思索の一つの帰結として「渇愛」だといった、その課題に通じる。渇愛を満たすとはどういうことか。アフガニスタンで、中村氏の導きによって皆が力を合わせて、生きる根源となる水を通す用水路を造ったように、渇愛の渇きを癒やす〝水〟を通す道はすでに開かれている。それは、渇きを満たした無数の先人たちが証明している。緑豊かな大地が水を証明するように。
児玉曉洋先生は、『よき人との出会い』(二〇一〇年、慈光学舎発行。講話は児玉曉洋選集第五巻に掲載)のなかで「出会う」ということについての質問にこう応えられる。「真実を生きている人がいるということやな。そういうことがわかれば、自分が落ち込むとか、絶望するとかということはなくなる。一緒に生きている、この現代社会の中になおかつ真実に生きている人がいるという、そういう実感やろうな。それが、よき人に会うということがもたらす最も大きな恵みでしょうね」と。真実に生きる人がいるという実感、渇きを満たした人がいるという実感は、私の生きる勇気となる。
児玉先生は講話の中で、「よき人」を「善き人」「好き人」「尊い人」と一通り述べられた後に、そういう人間のあり方が「二十世紀の世界の歴史の中で、徹底的に否定された」といい、原爆やアウシュビッツに言及する。そして最後に「よき人」を「立在する人」と押さえる。清沢満之の「独立者は常に生死巌頭に立在すべきなり」を引用し、「殺されるか、食えなくなるか、そういうぎりぎりのところに立ってもなお独立者である。それを可能にするのが絶対他力の大道だ」という。
中村氏もアフガニスタンで凶弾に倒れた。しかし最期まで生死巌頭に立在した人であった。それを可能にしたものは何か。十二月四日は中村氏の命日である。その姿に思いを馳せながら確かめていきたい。
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