ある介護施設での出来事である。認知症と診断されている一人の女性がデイサービスに通っていた。彼女のことで問題が起こっていると会議で話題となった。他の利用者から苦情がでているというのである。彼女は、レクリエーションなどデイサービスでの活動が上手くできない人に対して、たびたび強い口調できつく当たるような態度をとるという。言われた人たちは不快に思ったり、時には心に傷を負うほどに落ち込んだりして、あの人がいるなら行きたくないという声まで上がっているという。
彼女に言わせれば、「職員に迷惑をかけるのはいけない」という正義感から言っているのだという。しかし、デイサービスには身体や脳に障害がある人や認知症の人も多く、なかなか指示通りできなかったり、職員の手助けが必要なことも多い。それにもかかわらず、「なぜできないのか」「職員に迷惑だ」などと罵る言葉は、言われた側の立場に立てば、なんと心ない言葉か、何とかしてほしい、と思うのは当然であろう。
一方で医学的な観点からみると、認知症の症状の一つに「脱抑制」と呼ばれるものがある。「状況に対する反応として衝動や感情を抑えられなくなること」をいい、前頭葉機能の低下によると説明される。すると、この方が怒りっぽいのは「認知症のため」と言うことができる。しかし、それを傷つけられた人に説明しても、「なるほどそれなら仕方がない」とはならない。「そういわれてもつらい」「どれだけ苦しめられているのか、あなたはわかってくれない」と言われるかもしれない。
再び彼女の立場に戻ろう。家族関係に詳しい人の話によれば、実は家で家族にしばしば叱られているのだという。家族によれば「玄関で靴の着脱ができない」「部屋で大声で歌う」など何度注意しても改善しないというのである。それを聞いて一つの線が繫がった。彼女が施設で他者にしていることは、家で自分がされていることそのものであったのだ。「できない」ことを罵られ、「迷惑だ」と責められる。不思議なことに、そのことのつらさをわかっていながら、他者には同じことをするのである。「怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない」という『ダンマパダ』の言葉が浮かぶ。
ではどうすればよいのか。我われはどうしても「諸悪の根源」を探し出し、「家族の対応が悪い」といって責めたり、「本人に問題がある」といって薬を処方したり他の場所に移したりして、「悪」を排除しようとする。そして「善い人」だけの〝国〟を作ろうとする。ここに決定的に欠けていることがある。それは「悪」をそのままに受けとめる者が誰もいない、ということである。みな「善悪の字しりがお」で原因はあいつだ、という。「おおそらごとのかたちなり」(『正像末和讃』)である。
西田幾多郎は、鈴木大拙の言葉をあげて「此土において浄土を映す」(「場所的論理と宗教的世界観」、傍点筆者)と言う。「此土を浄土にしなければならない」とは言っていない。しかし、私自身の中にどこまでも「悪いものは悪い」というつきまとって離れない思いがある。一方で介護の現場ではどんな怒りも受け止めようと奮闘する人たちの姿がある。此土を排除するのでもなく、浄土をあきらめるのでもない、その双方が相照らしあうような場所が求められるとするならば、介護の現場がどのようになることなのだろうか。
[『崇信』二〇一八年五月号(第五六九号)「病と生きる(33)」に掲載]
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