自我と自己

 いつものように一人の男性が、息子さんに連れ添われ認知症外来に受診された。そのお顔は笑顔とも憂え顔ともつかない、感情がなくなってしまったかのようにみえる。目は合うが、話しかけても返事をされることはなく、私はまだ一度も彼の話す声を聞いたことがない。息子さんもしばらく父の言葉は聞いたことがないという。「最近お父さまらしさを感じることはありますか。ちょっとした仕草や表情でもかまいません。」私がそう尋ねると、「全くありません。以前の父はいなくなってしまいました。」と答えられた。

 どんなときも崩れることのないいのちの輝きがあると頷きながら、このような状況を残念に思う私がいる。私も認知症になれば、さっきまで自分がしていたことも記憶されず、一人では何もできなくなる。いずれは心動かされた様々な情景や言葉も忘れ、親しい人すらわからなくなるかもしれない。どんな状況でも生きる依り所となるという思いで続けてきた聞法も、できなくなるかもしれない。聞いてきた言葉も思い出せなくなるかもしれない。

 それを残念に思うということは結局、私が私でなくなる、私(自我)を失うことを怖れているのである。私がこれこれを経験した、私が生きている、私が仏法を聞いた…。どんな状況でも崩れない依り所を求めるといいながら、それを「私」が求めている限り、その私が崩れるのであるから、確かな依り所はいつまでたっても見つからない。「私」が崩れても崩れないような「自己」、いや「私」が崩れるからこそ顕かになるような「自己」。そんな「自己」が救われる道が仏教である、とまで言ってしまう前に、一旦そのような自己とは何かと問わねばならない。そして自己を全うするとはどういうことかと確かめなければならない。認知症はそういう問いを突きつける。

 自我と自己ということを語るとき、ほんとうの自己などというものはないのだ、自我が求めるままに生きて何が悪いのか、自我が求めることができなくなったら人生は終わりだ、という意見を聞く。先日も一〇四歳の科学者が、自分の人生に生きる価値はなくなったといい、安楽死のためにスイスに渡航したというニュースを耳にした。「朝起きて、朝食を食べる。それから昼時までただ座っている。それから少し昼食を食べ、ただ座る。それが何の役に立つのか」という。それこそが尊いとは受け止めることができないのである。この見方が他者に向いたのが相模原障害者施設殺傷事件ではないだろうか。そしてこの見方に対して、多くの人はどこかで否定しきれないでいる。

 一方で、どんなに惨めであっても生き抜こう、いのちを燃やし尽くそうとする人たちの姿がある。そこには自我が崩れきった底に立つ者の力強さがある。その姿からは、どんないのちにも輝きを見る視座を与えられる。多くの障害を抱える人たちのみならず、苦難の続く人生を生きるあらゆる人に勇気を与える。そこに自我を超えた自己の姿を垣間見る。

 自我崩壊を怖れる心は、ただ生きることの尊さを見えなくする。他者との分断がある。自我が崩れた底に立つ者には、いのちに対する敬意がある。他者との繫がりがある。自我に立つか、自己に立つか。

[『崇信』二〇一八年六月号(第五七〇号)「病と生きる(34)」に掲載]