敬うべきものがある生活

 「最近すぐに怒るようになったんです」認知症外来でご家族から相談があった。たとえば、いつも昼になっても起きてこないから起きるように言うと激怒するという。認知症では相手を否定してはいけないと聞いたが、なんでも放っておいたらいいのか、それともこうした方がいいと促す方がいいのか。そういう相談の間、当のご本人は何か言いたげにじっと黙っておられた。

 「どちらがいいかという前に、まずご自身のお気持ちを聞きましょうか」私はそう言って「今のお話を聞いていかがですか」と尋ねた。すると、「わからん」「しらん」と言ってまた黙ってしまわれた。ご家族がいうには、いつもこんな感じで、聞こうとしても何も話してくれないという。私は少し二人だけで話をさせてほしいとお願いした。

 次第に打ち解け、いろいろなことをお話ししていただいた。歩くのが好きだが、近所の河川敷は舗装されてしまって歩きづらくなったという。そんなお話から始まり、昔はよくしていた山歩きのことをお聞きできた。しかしそれも今ではできなくなった。ゴルフが好きで、定年後は数十年来の親しい友人とゆっくり楽しもうと思っていた。しかし、今度は認知症で車の免許を返さないといけなくなり、行けなくなった。友人が電車で行けるように計らってくれたが、迷ったり荷物をなくしたりして行くことができない。孫の面倒を見るのが生きがいだったが、最近はどうも煙たがられているようだ。そんな自分が朝起きてみんなの前に出て行っても邪魔なだけだ。それにすることもない。そんな心境を語られた。「そういうことを家族や親しいご友人にお話しされますか」と尋ねると「そんなことは格好悪くて言えない」ということであった。そういう疎外感、喪失感を一人で抱えておられたのであった。

 しかしほんとうは一人ではなく、みな同じ問題を抱えている。児玉曉洋先生は「往生について」(『崇信』第一五七号、一九八四年一月)の中で、「正定聚に住するがゆえに、必ず滅度にいたる」ということについてこのように述べられる。

「これはどういうことが言ってあるかというと、まず人間としてこの人生を生きている誰でもの問題が基本的に二つある。それは、現在何を依りどころとして(いのちの根拠をどこにおくか)、将来どこに向かって生きていくのかという、二つの問いがあるのです。この二つの問いに対する応え方によって、その人の生きざま the way of life が決まるわけです。まあ、現在はお金を依りどころにして、将来墓場に向かって進んでいるのと違いますか。現在は子どもを依りどころにして、将来養老院へ行くという人もいるでしょう」

 邪魔だといわれる(疎外感)、することがない(喪失感)という問題はまさに、「現在何を依りどころとして、将来どこに向かって生きていくのか」という問題ではないか。多くの人が、自分の思いの通りにすることが自由で人間らしく生きることだと思っている。そんな人間の在り方が行きづまるのだとは気づかない。他者は認知症で何もできない困った人としか見ず、自分自身すら格好悪いとしか見られないような人間観が、疎外感と喪失感を生み出し続けていく。

 しかし、そういう問題に向き合い、乗り越えた人物の生きざまに触れたとき、自分の思いがもつ問題に気づかされ、みな同じ苦悩の中にいることを知る。自分の思い以外に敬うべきものがあると知ったとき、はじめて再び生きる意欲が湧いてくるということがある。往生という言葉で語られているのは、そういう道があるということではないか。

[『崇信』二〇一九年五月号(第五八一号)「病と生きる(45)」に掲載]