たすからない自分

 研修医のころのある日。鈍く重い音が聞こえたと思ったら、すぐに院内放送が入った。「CPR、CPR、三階北病棟」CPRコールとは、院内で心肺停止などの緊急事態が発生したときに、医師や看護師がすぐ駆けつけるように知らせる放送である。コードブルーなどとも言われる。

 三階北病棟は前がテラスのようになっている。リハビリ病棟のために重症の人は少なく、CPRコールが入ることはめずらしい。すぐに七階北病棟から三階北病棟に向かった。しかし向かう途中で引き上げて戻ってくる医師たちに会った。まったく手の施しようがなかったという。八階北病棟からの飛び降りであった。

 ある医師は自ら死を選ぶのは自由だと言った。また別の医師は癌の末期だったからしかたがないと言った。精神的に弱い人で苦しみから逃げたのだと言うのも聞いた。治療が適切だったら助けられたかもしれないと言う人もいた。どの言葉もどこか冷たい響きをもって聞こえた。みなその人の死が良かったか悪かったかという評価しかしていない。どんな心で死を選んだかということに触れるすべを持っていない。「いのちの叫び」を聞く耳を持っていない。本当の意味で悲しむことができない。ただ傍観者となるのみである。

 ビルの上から飛び降りようとしている人に向けて、みなスマートフォンのカメラを向けているという恐ろしい風刺画を見たが、先日大阪の商業施設の事件でまったく同じ状況が現実に起きていた。人生楽しめばよいという考え方が行き着く先は、人の死すら面白がる対象としてしか見られず、いのちを見る眼を失うことになる。しかし、人の死に対してただ評価を下しているだけであれば、傍観者であることに変わりはない。

 では仏教者はどうか。自分はどうか。お念仏の教えに出会ったならば、どんな苦悩もお与えのいのちとして生きていくことができる。自分の思いに飲み込まれず、いのちを私物化せず、いのちをそのままに受けとめ生きていくことができる。仏教はそんな教えだと話していたら、こう言われた。「先生はどんなことがあっても生きていけるんですね。私は仏教に出会っていないから駄目なんですね。」いつの間にか、たすかった立場に立っていた。

 児玉曉洋先生は語られる。

「すでにたすかってしまったのでもなく、未だたすからないのでもない。念々にたすけられていく。(中略)そこに機法の分限がはっきりと区別され、同時に機法一体なのですね。そこのところに混乱が起こる。そこには、真宗の話を聞いてたすかってしまった偉い人と、いつまでたってもたすからない駄目な人とがいることになるのです。(中略)すると、信心を獲たということが傲慢の材料になる」(『児玉曉洋選集』第九巻)

 自分も病院の窓に片足をかけているようなものであった。次の瞬間、何が起こって自分の思いに飲み込まれ、もう片方の足を踏みはずすかわからない。たすからない自分であった。その事実に目をつぶり、私は地に足が着いていると言ってたすかった自分に立った瞬間、たすからない不自由を蔑むことになる。

 また児玉先生には「そのたすかっていく歩みそのものが、人をたすけていくのであって、自分がたすかっていく歩みの外に、人をたすけるということがあったら、それは「真宗」ではない。」(同右)と教えていただく。

 あの日のCPRコールに自分のいのちの叫びを聞けるか。非真実に帰れるか。非真実の信を真実とするような私からは非真実には帰れない。だから法の真実によって、自らの非真実に帰っていく道を確かめる必要がある。

[『崇信』二〇一九年六月号(第五八二号)「病と生きる(46)」に掲載]