死に至る共感

押し潰されるような重くのしかかる痛みといえばよいのか、ただ悲しい、恐ろしいという言葉では表しきれない事件が起こった。二〇二〇年七月二十三日、京都市に住むALSと診断されていた女性に薬物を投与して殺害したとして、二人の医師が逮捕されたのであった。そして、事件そのものだけでなく、この事件に対する世間の反応を見るに、より暗澹たる気持ちになった。「本人が死にたいと言っているのだからいいではないか」「私だったらこのような状態で生きていくことはできない」「生きることを強いるのは強者の価値観の押しつけだ」「当事者でもない人がとやかく言ってはいけない」このように当人の死ぬ権利を主張し、他者の「生きてほしい」という願いすら、価値観の押しつけだと捉える意見が非常に多いということである。これらの意見は一見、死にたいという思いに寄り添っているように見える。しかしはたしてそうだろうか。自我の欲求が満たされるかどうかという価値基準でしかいのちを語れない世の中が、絶望の最中にいる人を一層自我の暗闇に閉じ込めているのではないか。

先日当直中、あるご高齢の患者さんが息苦しいと訴えられたため診察した。身体的な異常はなかった。しかし「先生、私ももう安楽死させてもらうわけにはいかんやろか」といわれた。ちょうど事件が話題になっていたころである。また、今回の事件で殺害された女性は、二〇一九年六月二日に放送されたNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」(『崇信』二〇一九年七月号「病と生きる(47)いのちは誰のものか」参照)を見たことが安楽死への思いを強めたきっかけだったという。そしてその番組内で安楽死を選んだ女性は、同じ病気の患者の姿を見て安楽死への思いを強めたという。「こうなってはもはや生きている意味がない」といのちを無意味化する分別意識が連鎖し大波となって、目の前の患者さんにまで押し寄せ、私をも飲み込もうとしているようであった。

これまで出会ったALSと診断された方々のお顔やお話ししたことを改めて思い出した。死にたいと語られた人は少なくなかった。全身が動かなくなっても生きている、もし自分がそうなったとき、死にたいと思わない人の方が少ないだろう。生きていてもつらいだけだと悲しみに暮れるのは当たり前ではないか。

しかし、だから安楽死の是非を考えなければならない、というのは拙速に過ぎる。安楽死は良いことだと肯定することも、悪いことだと否定することも、どちらの態度も「すでにその苦悩をわかっている」ということを前提にしてしまっている。その前提が、死にたいという声の奥に流れる心に眼を向けることを妨げているのではないか。是非を論じる前にしなければならないことがある。

死にたいとおっしゃっていた患者さんはみな、そうはいっても日々揺れ動いていた。「死にたい」という言葉の奥には、「ほんとうは生きたい。けれど、今の状況では生きられない」そんな葛藤の中で、ほんとうに生きる道はないのかという問いとの格闘があった。それは確かな生きる道を求めていたからこその苦悩ではないか。心が弱いから苦悩するのではない。「生きる意味を失って、それでも生きていく道はあるのか」という問いに対して、「そんなものは無いから死ぬしかない」と決めてかかるのは、暗闇の中で確かないのちを求める真摯な心を見ずに、暗闇を暗闇のまま葬り去ることではないか。「それがわからない、わからないからなんとか一緒に探したい」——そういうところから、暗闇が暗闇のまま光を映す場所になることが始まるのではないか。幸いにして私たちは、自我の暗闇を乗り越えて自己自身を生きぬいた仏陀にたずねることができる。

[『崇信』二〇二〇年九月号(第五九七号)「病と生きる(58)」に掲載]

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