身命をかえりみず

循環器内科を研修中に心筋梗塞の患者さんを担当したときのことである。発症して二日目の非常に危険な時期に、突然患者さんが家に帰ると言いだした。今治療をやめて動くのは大変危険であるということを説明しても、聞き入れられない。理由を尋ねても、それは言えないという。余程の理由があるのかもしれないが、帰してしまうと命を落とす危険が高い。何とか引き留めたが、結局理由はわからなかった。

では自分はどうか。命の危険を回避することだけを考えて生活しているわけではない。たしかに命がなければ何事も為すことができない。しかし身を削ってすべきこともまたある。ある意味で我われは、この一生の身命を懸けてすべきことを求めているということもできる。

思えば、医師という仕事は生命の危険と隣り合わせである。吐血した血を浴びることもあるし、危険な感染症の治療に当たることもあれば、怒鳴り込んでくる患者の治療のため、逃げ道と緊急通報ボタンの位置を確認しながら診察することもあった。「自分がやりたいことをする」という、自我の欲求という言葉では表しきれないような、他者との関係のなかでなりたつ使命のようなものがあるように思う。

さて、神経内科の診療ではこのようなこともあった。多発性筋炎の患者さんを担当したときのことである。多発性筋炎とは、自分の筋肉に対して免疫反応が起こり、炎症をおこして動けなくなる自己免疫疾患である。大量のステロイドを投与して治療していた。その真っ最中に、患者さんがどうしても家に帰らないといけないと急に言い出したのである。ステロイドによって免疫も低下しているし、そもそもまだ筋力が回復してない。筋炎の治療は絶対安静が原則である。病気が悪化するうえに感染のリスクも高いと説得するが、聞き入れてもらえない。

よくよく事情を聞くと、実は明日は息子の初めての受験だという。仕方ないと思っていたがやはりどうしても家にいてやりたいというのである。身の安全と、身を削っても息子のために家に帰るのとどちらが大事なことか——。しばらく問いなおし、ついには同意書を書いて帰っていただいた。

このようなエピソードから、私たちはいったい何を一番大事なものとして生活しているかが改めて問われるように思う。自分の生命が最も大事、自分の欲求をみたすことが最も大事ということ以外に大事なものがわからず、生きる方向性を見失うのではないか。ほんとうは今しかできない、自分にしかできないことがあるのではないか。

しかし、たとえば新型コロナのような感染症の状況では、もう少し踏み込んで問われる。自分がすべきことをするんだといってそれを通したときに、多くの人を生命の危険に巻きこんでも、その行為は許されることなのかということである。他者を傷つける自分勝手な行動と、自分の使命を果たすための行動との境はどこにあるのだろうか。我われは、何をほんとうに求めるべきかを知らない、「無明」の心のままに求めて、ほんとうでないものをほんとうにするような我執におちいるのではないか。自他を傷つけるような我執を使命だなどと言ってしまうおそれもまた、我われにはある。

昭和四十二年、東本願寺出版部発行の『釈尊読本』には、身命を懸けて真実の法を求めた「雪山偈」が取り上げられ、その後の〔視点〕の中にこのように記されている。

あれもほしいこれもほしい、いろいろほしいものはあるけれども、人間にとってそういうものよりも、もっと本質的に、切実にほしいものは真理ではないだろうか。言いかえれば、そのなかに喜んで身を投げだすことのできるようなまこと、これは私たちにすぐ気づくことができるような欲求ではない。いろいろなことを思う心よりももっと深いところにひそんでいるからである(『釈尊読本』六頁)。

ほんとうに求めていることは、自我の欲求の心よりも深いところにひそんでいる、と。その深いところに響く声に、寂かに耳を傾けたい。

[『崇信』二〇二一年十二月号(第六一二号)「病と生きる(73)」に掲載]