仏教の課題につながりにくいと考えて、あまり治る病気のことを書いてこなかったが、神経疾患にはもちろん治癒する疾患もある。そのことも少し記しておこうと思う。
あるとき、五十代の男性が意識障害で救急搬送され、救急診療科より脳神経内科に相談があった。血液検査でも頭部MRIでも何も異常がないのに、意識が全くない。原因を調べてほしいとのことであった。脳神経内科も共観(複数の科で同時に診療すること)となった。
刺激をしても全く反応がなく、自発呼吸もないため、人工呼吸器で生命を維持している。意識障害というと脳の病気と考えがちであるが、脳以外が原因のことも多い。全身の疾患についても確かめるが、意識障害を来すようなものは全くなかった。髄液検査で感染症の検査をするが、検出されない。ただし髄液蛋白の上昇がみられた。
意識障害ではなく閉じ込め状態の可能性や、てんかん重積状態、プリオン病など特殊な脳波が見られる疾患なども考えて脳波を施行することになった。すると、予想外にも全く脳波が検出されない平坦脳波であった。脳死と診断されるような状態である。原因は不明であるが、もう手の施しようがないと思われた。
救急診療科のカンファレンスは早朝に行われる。深夜までの勤務のあと、睡眠不足で朝のカンファレンスが土日を問わず毎日つづく。また救急の先生がたは追求が特に厳しい。それも苦痛であったが、何よりも、原因がわからないまま、全く回復することなく時間だけが過ぎるのであるから、ご家族の悲歎とも医療への不信ともつかない追求の言葉が、胸に突き刺さった。
そのとき、脳神経内科のカンファレンスで、ある可能性が示唆された。ビッカースタッフ型脳幹脳炎(BBE)の可能性はないか、と。脳幹に自己免疫反応による炎症を起こし、眼球運動障害や運動失調、意識障害を来す疾患である。重篤になることがあるが、脳波が平坦になることは通常考えにくい。しかし髄腋蛋白が上昇していることは矛盾がない。可能性は低いが他に治療法がないのであれば、BBEの治療を試みる価値はあるのではないか、ということになった。髄液中の抗GQ1b抗体という抗体が診断の決め手になるので検査を提出した。結果は時間がかかるので、その結果を待たずに免疫グロブリン大量静注療法という治療を開始した。
すると、驚くべきことに、徐々に反応が出始め、最終的には普通に会話ができるようにまで回復したのであった。後に抗GQ1b抗体が陽性であることがわかった。
この一連のできごとは、関わる人たちが、広い医学的知識をもって、ただただ自分の仕事を尽くした結果である。努力することなく現状をただ受け容れるだけであれば、生命は失われていただろう。
しかし、努力によって良い結果が得られたという体験を蓄積すると、他のできごとにも当てはめたくなる。努力で問題は解決できる、努力は報われると考えたくなる。ところが、そこには「どうにもならないこと」を受けとめる論理がない。実際の医療現場では、むしろいくら努力しても重い障害が残る、あるいは命を落とすということのほうが多い。成功体験を当てはめるだけなら、多くはただの失敗例となってしまう。結果が悪ければ努力が空しくなり、良ければ喜べる。結果から遡って、それまでのおこないに対して良し悪しの価値を付けるしかなくなる。
それなら悪いことの最たるものは死であり、みな失敗に向かっていることになる。その結果から遡れば、生きる営みはすべて空しい。しかし、児玉曉洋先生が「私たちがその生の中で「阿弥陀」に触れるならば、死は生の完成となる」(『児玉曉洋選集第九巻』三八二頁)と言われたように、死への生ではなく、浄土への生を願う者にとっては、生きる営みは仏に出会い、仏に成ること、つまり生の完成につながる道となる。生の意味が開かれているという点では、努力することと受け容れることとは相反することではないといえる。
[『崇信』二〇二二年九月号(第六二一号)「病と生きる(82)」に掲載]
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