音楽の原風景

[この記事は『崇信』二〇二三年三月号(第六二七号)巻頭言に掲載されたものです]

最近、音楽を聴く機会がめっきり減った。新型コロナでコンサートに行くこともなくなった。聞法会で恩徳讃を歌う(*1)機会も減っているかもしれない。

音楽と一口にいっても、様々な触れ方がある。私はもっぱらスピーカーなどを通して聴くのが主で、人が集まったときに誰かが自然に歌うのを聴くということには馴れていなかった。五年ほど前だろうか、崇信同人会のあと、崇信学舎で藤谷純子さんが歌を歌ってくださった。「もしよきひとにあわざれば今日のよろこびしらざらん」その歌声が心に響いた。そこに自分が身を置いていることがうれしくなった。音楽はただ聴くだけのものではないことを知った。

音楽を聴くことが減ったというが、そもそもどう触れてきたのか。音楽の記憶を少し遡ってみた。
覚えている最古の音楽は、おそらく本堂から流れてきた恩徳讃かと思う。寺に併設する老人ホームに音楽クラブがあり、その人たちの演奏をバックに皆さんが歌っているのが毎朝聞こえてきた。
一方で、医大に通いながら大阪真宗学院に入ったとき(後に行かなくなるが)のこと。真宗宗歌を皆で歌ったとき、私は知らず歌えなかった。そのときの疎外感をよく覚えている。音楽が作る場はときに閉鎖的にもなりうる。

医大では軽音楽部に入った。私が知らない音楽を皆よく知っていた。ハードロックやヘヴィーメタル、ファンクやジャズまでいろいろな音楽に触れ、演奏したときには世界が拡がった気がした。

音楽には、聞くことと演奏すること以外に、「作る」ということもある。私は作曲も結構好きなのだが、作った曲には自分が出る。こんなものしか作れないのかと恥ずかしくなる。

作曲するには音楽理論も必要だと思って勉強した。するとこれが面白い。こうやって出来ているのかと感心する。ではオリジナリティとは何なのか。それが分からなくなるから理論は勉強しないという人もいる。しかし、あるジャズピアニストの言葉が腑に落ちた。「理論を深く知ることが私たちにより大きな可能性をもたらすことになっていくんですね。理論とは、普遍的なものを私たちの頭で理解しやすい形に記述したものです。(中略)「いい音を出したい」の一念であれこれやっているうちに、普遍的なものとの出会いを何度も経験するはずです。するとやがて個人的なちっぽけなものだと思っていたあなたのオリジナリティがいつの間にか大きく成長し、あなたの周りの自然、つまり普遍的な何かと一体となり、逆に大きくあなたを包み込むようになるのです」(中島久恵『JAZZ THEORY COURSE』)

普遍的なものとの出会いが私を顕かにし、私を歩ませる。そういうことが音楽で語られているのはとても面白い。歌が生まれ、場をつくり、歌い継がれていく。そんな歴史の中で、私はどんな歌に出会い、どんな歌を奏でるのか。

(*1)聞法会で恩徳讃を歌う:聞法会とは仏教の教えを聞く会のことで、聞法会では、会の最後に、親鸞聖人の和讃にメロディーをつけた「恩徳讃」を皆でうたって終わるという形をとることがしばしばある。コロナ禍で感染予防のためひかえられていた。

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