2023年盂蘭盆会講話「お盆がつたえること」

[2023年8月10日受念寺盂蘭盆会の講話をまとめたものです]

昨年のお盆では、「供養」ということをお話しさせていただきました。供養という原語から確かめましたね。尊敬する、敬うという意味だというところから始めました。それで誰を供養するのかといえば、仏教では、仏陀を供養することでした。つまり一人の人間を仏として尊敬する、敬うということですね。ということは、「仏として」見るとはどういうことか、仏というのはどういう人間か、ということが問題なわけですね。

逆にいえば、私たちは、尊敬するものが見えない、仏というのはどういう人間かということが見えないような生活をしているということですね。何を一番大事にしているかといえば、「自分の思い」を一番大事にしているわけですね。だから自分の思いを満たすということ以外に大事なもの、尊敬すべきものがなかなか見えないというところにいるということですね。

今日はお盆ですが、そのことと「お盆」という行事が関係あるかといえば、あるんですね。ですから、今日は「お盆」を通して、私たちのあり方を確かめたいと思います。

お盆というのはどういう行事なのか、みなさんご存じでしょうか。なんとなくご先祖が帰ってくるというイメージがあるかもしれません。今の日本のお盆がなぜ今のような形になってるかは、僕は詳しくお話しすることはできません。おそらく仏教が中国を経て、日本の風習とがまじりあって長い時間をかけていまのようになっているんでしょう。

それで、もともと「お盆」という言葉は「盂蘭盆」というんですね。それで『盂蘭盆経』というお経があって、それがもとになっているんですね。お母さんやお父さんが、死後に「餓鬼道」というところに生まれて、苦しんでいるんですね。それを供養によって助けるという「施餓鬼供養」ということが行われるのが「盂蘭盆会」と言うことになっています。

盂蘭盆ということばが、実はよくわかっていません。なんかちょっと外国語のようですね。よく有る説では、ウランバナ(ullambana)というサンスクリットからきており「倒懸(逆さ吊り)」の意味で、「見方が顛倒していることを表していて・・・」みたいなお話しを聞かれたかたもあるかもしれません。これは玄応の『一切経音義』(650年)に基づいていて、歴史がある説ですね。ですので、これはこれで大事なことを伝えてきた面はあります。

ですけど、『盂蘭盆経』の原文を読んでみると、それでは意味が通じないんですね。ですので、今日は一回『盂蘭盆経』の原文を紹介したいと思います。三つの箇所にわけて見ていきたいと思います。

第一場面

三悪道について

まず最初はこのようになっています。

西晋月氏三藏竺法護譯 聞如是。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。大目乾連始得六通。欲度父母報乳哺之恩。即以道眼觀視世間。見其亡
母生餓鬼中。不見飮食皮骨連立。目連悲哀。即鉢盛飯往餉其母。母得鉢飯。便以左手障飯右手摶飯食未入口化成 火炭。遂不得食。目連大叫悲號啼泣。馳還白佛。具陳如此。 (書き下し文)聞くこと是の如し。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在しき。大目乾連始めて六通を得。父母を 度し、乳哺の恩を報ぜんと欲し、即ち道眼を以て世間を観視して、其の亡母、餓鬼の中に生まれ、飲食を見ず皮 骨連立せるを見る。目連悲哀して、即ち鉢に飯を盛り、往きて其の母に餉(おく)るに、母、鉢の飯を得て便ち左 手を以て飯を障え、右手にて飯を摶むに、食、未だ口に入らざるに化して火炭と成り、遂に食するを得ず。目連 大いに叫び、悲号啼泣して馳せ還りて、仏に白して具に陳ぶること此の如し。

(あらすじ)
目連尊者は初めて六神通(じんづう)(六種類の自由自在な能力)を得たとき、今は亡き父母の恩に報いたいと思いました。そこで天眼通(てんげんつう)(六神通のうちの一つ)によって探したところ、母が「餓鬼(がき)」の世界(餓鬼道)におり、飲食をとれず骨と皮の状態でした。そのことを目連尊者は悲しみ、鉢にご飯を盛って母のもとへ運びます。しかし母は食べようとしますが、口に入れる前に火に変わり炭となってしまい、食べることができないのです。目連尊者は大いに悲しんで、釈尊のもとを訪ねます。

ここで「餓鬼道」がでてきますね。餓鬼というのは、三悪道(三悪趣、三途)のうちの一つです。地獄、餓鬼、畜生という三つですね。これは死後にこういう世界があるという解釈がされますが、そういう物語が私たち生きているものにとってどういう意味があるのか、と考えることが大事ですね。現実の何を表しているのか、ということですね。

「地獄」とは何かと言えば、「容赦なく責められ恐怖する苦しみ」ですね。戦争なんかがまさにそうですね。いまウクライナがロシアに侵略されていますが、そういう容赦なく殺されるような世界ですね。いじめもそうかもしれません。そのように気に入らない他人を排除するようなことですね。これは私たちの周りのいろんなところで現れることですね。

そしていま問題の「餓鬼」は、「飢えの苦しみ」ですね。「つねに飢えている者の世界です」どんなに食べても満たされたという満足がえられない苦しみです。これは食べ物だけの問題ではないですね。思えば私たちは、いつも現状に満足できず、「もっとよくありたい」「思うがままにしたい」という欲に追われて周りのものを求める。欲しいものを手に入れてもそれで満足できず、さらに別のものが欲しくなるということがありますね。経典にもこのようにでてきます。

『無量寿経』下巻 (真宗聖典p. 58-59)
田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)
田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。

家をもっていないひとは、もっていないことを悲しんで、手に入れようとする。手に入れたらこんどは、それがなくなったらどうしようと心配なる。あってもなくてもそれによって苦悩があるというんですね。手に入れてもまだ足りない、と思う。

自分のいのちに置き換えてもそうですね。いま与えられている命をそのままに満足できないですね。もっとここがよければ、これがなければと不満がありますよね。思ったとおりになれば喜ぶが、そうならなければ悩むという生き方をしている。

「畜生」は、動物の生の悲しみを表わしたものですから、人間で言えば、「自由のない苦しみ」ですね。つまり支配されているということを表わす。社会でもそうでしょうし、会社とか人間関係でもそうです。

第一願と第十願

この三つのない世界がいい、と皆思うわけです。人から責められる、危害を加えられるということがなくて、つねに不満ではなくて満足でいられて、だれにも支配されないような、そんなところにいたいと思うわけです。これは真宗で大事にされている経典である『無量寿経』の本願にもでてきますね。四十八願という、法蔵菩薩の願いが48でてきますが、その一番最初の第一願がこうですね。

たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

無三悪趣の願といいます。地獄・餓鬼・畜生がない世の中にしたい、という願いですね。しかしどうでしょうか。これは誰もがもつ願いで、日頃の思いとしてはそうなのですが、これだけだと、じつは行きづまるということがあるわけです。

それが仏教の問題になってくるわけですが、たとえば、先の「地獄」の問題で言えば、誰からも責められないような、危害を加えられないような社会を作ろうとして、原爆のような、何十万もの人を一瞬で殺してしまうようなものをつくるわけです。

あるいは、「餓鬼」の問題で言えば、医療の問題でいえば、誰もが健康でありたい、身近な人が健康でいてほしい、と思うわけですが、実際にあったことです。コロナが始まって最初の頃です。こんな貼り紙が街の掲示板に貼ってあって、驚いて写真を撮りました。こんなことが書いてあったんです。「友人の息子がコロナウイルスに感染しました。その他のお母さんから、この○○という子供英会話に通っている幼稚園児が他に何人もコロナ感染者と接触したという事実を知りました。この子供英会話では先生がマスクをせずに子供に触っていたそうです。その事実を隠して、何事もないかのように営業しています。子供の命を何とも思わないこの感染源を私たちの地域から追い出すために、協力してください」とこうです。大変ひどい貼り紙です。書いている本人は「子供の命」を守るため、と「よいこと」をしているつもりなのです。ひょっとしたら子供思いのやさしい人かも知れません。ところが、感染源を追い出せと、人間がやっていることなのに、まるでモノのように汚物かのようにして排除しようとする。こういうことが起こってくるわけです。

それから「畜生」ということでいえば、ある難病の患者さんのことで、こういうことがありました。難病でだんだん身体が動かなくなってきた。目線をつかって文字盤でなんとかコミュニケーションをとっていた。だけどそれができなくなってきた。そしたら横で文字盤でなんとか話そうと一緒にやっていた夫が、お腹をどつき始めたんですね。見かねて、そこまでする必要はないでしょう、といったら、そんなこといって甘やかしてできなくなったらどうするんだ、というんですね。これも夫はよかれと思ってやっているわけです。ところが、これは完全に虐待ですね。力による支配です。そういうことが起こってしまう。

だから、先ほどの第一願の「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」というのは、たしかにそれはすばらしい願いなんだけれど、それだけだと人間は、まったく逆のものをつくりだしてしまうんですね。だから第十願というものがあるんですね。それは何かというと、

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、もし想念を起こして、身を貪計せば、正覚を取らじ。

というんですね。「想念」というのはつまり、私の心、思いですね。その思いが、私や私のものに執着するわけです。それを「身を貪計」するといっています。自分の国は守るけれど、他の国はどうなってもいいということで、恐ろしい兵器ができる。私の子供を守るために、他人はどうなってもいいとなる。私の思いどおりになってほしいと願って、他人を意のままに操ろうとする。あるいは自分自身についてもそうです。こういう私は生きていて意味がある、こういう私は生きていても意味がない、と自分のいのちの価値も二つにわけて優劣をつけるんですね。それを「想念を起こして、身を貪計せば」というんですね。ひとことでいうと「我執」です。そういう人間のあり方に気がつかなければ、地獄・餓鬼・畜生のない世界を願ってもそのことが全部裏目に出るわけです。そういうことを、我々の見方がひっくり返っているから「倒懸」、逆さ吊りになっている、という説教が生まれたんだと思います。だから大事なことをつたえているのですが、それを「盂蘭盆」の訳だというとちょっとちがうように思います。それはあとでいいます。

第二場面

佛言。汝母罪根深結。非汝一人力所奈何。汝雖孝順聲動天地。天神地神邪魔外道。道士四天王神。亦不能奈 何。當須十方衆僧威神之力。乃得解脱吾今當爲汝説救濟之法。令一切難皆離憂苦罪障消除。
佛告目蓮。十方衆僧於七月十五日僧自恣時。當爲七世父母。及現在父母厄難中者。具飯百味五果汲灌盆器。香 油錠燭床敷臥具。盡世甘美以著盆中。供養十方大徳衆僧。當此之日。一切聖衆或在山間禪定或得四道果。或樹下 經行。或六通自在教化聲聞縁覺。或十地菩薩大人權現比丘。在大衆中皆同一心受鉢和羅飯。具清淨戒聖衆之道其 徳汪洋。其有供養此等自恣僧者。現在父母七世父母六種親屬。得出三途之苦。應時解脱衣食自然。若復有人父母 現在者福樂百年。若已亡七世父母生天。自在化生入天華光。受無量快樂。
時佛勅十方衆僧。皆先爲施主家呪願。七世父母。行禪定意然後受食。初受盆時。先安在佛塔前。衆僧呪願竟。 便自受食。
爾時目連比丘及此大會大菩薩衆。皆大歡喜。而目連悲啼泣聲釋然除滅。 (書き下し文)仏の言わく、「汝が母は罪根深く結せり。汝一人の力をもって奈何ともすべき所に非ず。汝、孝順 にして声、天地を動かすと雖も天神地神も邪魔外道も道士も四天王神も亦た奈何ともすること能ず。当に十方 衆僧の威神の力を須いて乃ち解脱することを得せしむべし。吾、今当に汝が為に救済の法を説き、一切の難を して皆憂苦罪障を離れしめ、消除せしむべし。」
仏、目蓮に告げたたまわく、「十方衆僧の七月十五日、僧自恣(じし、雨安居のこと)の時に於て、当に七世の 父母、及び現在の父母、厄難の中なる者の為に、具に飯と百味の五果を盆器に汲み潅ぎ、香油、錠燭、床敷、臥 具、世の甘美を尽して、以て盆中に著けて、十方の大徳衆僧を供養すべし。この日に当たりて、一切の聖衆、或 いは山間に在りて禅定し、或いは四道果を得、或いは樹下に経行し、或いは六通自在にして声聞、縁覚を教化 し、或いは十地の菩薩大人、比丘に権現して、大衆の中に在りて、皆同一の心にして鉢和羅の飯を受けたまう。 清浄の戒を具せる聖衆の道は、その徳汪洋たり。其れらの自恣僧を供養すること有らば、現在の父母、七世の父 母、六種の親属、三途の苦を出ずるを得て、時に応じて解脱し、衣食自然ならん。もしは復た人有りて父母現在せば福楽百年ならん。もしはすでに亡ぜし七世の父母は天に生じ、自在に化生し、天の華光に入りて、無量の快 楽を受けん。」
時に仏、十方の衆僧に勅したまわく、「皆まず施主家の為に七世の父母を呪願し、禅定意を行じ、然して後に 食を受くべし。初めて盆を受くる時、まず仏塔の前に安在し、衆僧、呪願し竟りて便ち自ら食を受くべしと。」
その時、目連比丘、及びこの大会の大菩薩衆、皆大いに歓喜し、而して目連悲啼の泣声釈然として除滅す。是 の時、目連其の母、即ち是の日に於て一劫餓鬼の苦を脱することを得たり。

(あらすじ)すると釈尊はこのように教えられます。「あなたの母は罪が深く、あなた一人では どうすることもできない。十方の僧の力によれば解脱が得られる。雨安居(うあんご)(雨期の間、聞法し修行をする会)の最終日に、七世の父母のために、いろいろな飲食をお盆に入れて、十方から安居に参加するためにあつまった僧侶たちに施しなさい。この日みなが同じ一つの心で施しのご飯をいただけば、道を求める者たちの徳は大きいので、三途の苦しみから脱け、自由になることができる。」

一方、釈尊は十方から集まった僧侶たちには、このように言います。「施主の七世の父母のために、仏に護られることを願い、禅を行じ心を定めて、それから飲食をしなさい。初めていただくときは、仏塔の前で皆で仏に護られることを願い、それからいただくのです。」そうして目連や集まった僧侶たちは皆大いに歓喜して、目連の悲しみ泣く声はいつしか消えていきました。目連の母は餓鬼の苦しみから脱けることができました。

同じ一つの心で

ともかく、こういうことを「餓鬼道」ということで扱っているわけですね。母はなにも悪いことをしていないのに、なんでこんなひどい目にあっているのか、と考えてしまいますが、母も、さきほどのチラシを貼った人や、お腹をどついた夫と同じで、たとえば我が子にとてもやさしい母であっても、というよりやさしいからこそ、他人の子供を蹴落として我が子を守るということがあるわけです。むしろそうしていのちが成り立っている部分がある。そういう意味で、罪を背負っているというわけです。だから次のところに母は罪が深く、とありますが、母だけではなくて、人間の罪ですね。それを代表して描かれていると読まないといけないとおもいます。

では、その母を救うにはどうしたらいいか、といえば、「汝一人の力をもって奈何ともすべき所に非ず」「あなた一人ではどうすることもできない」というんですね。それはそうですね。たすけようという側も同じように「我執」でものごとを願い、かえって逆の世界をつくり出しているわけです。人間の罪を照らし出す、知らせる智慧が必要なわけです。だから、僧に飲食をほどこすと。この飲食をほどこすためのお盆が、経典の後半で「盂蘭盆」といわれるんですね。だから盂蘭盆の「盂蘭」はよくわかりませんが、「盆」は文字通りお盆でよさそうですね。

そしてこういうんですね。「この日みなが同じ一つの心で施しのご飯をいただけば、道を求める者たちの徳は大きいので、三途の苦しみから脱け、自由になることができる。」と。「同じ一つの心で」と、ここが大事ですね。つまり、同じ人間の問題に向き合うということですね。自分の母だけの問題であれば、他の人には関係ない。そういう問題じゃ無いということですね。よかれと思って願うことが、地獄、餓鬼、畜生を生み出すような人間の問題に向き合う。

自分個人が願うことであれば、隣の人と違う。人それぞれですね、で終わってしまう。たとえば親であれば、子どもが受験に受かるように願う。それは当然そうですが、それは誰が落ちることを願うことでもあるわけです。今甲子園で高校野球をしていますが、ちょうどさっき大谷翔平選手がインタビューで、母校の花巻東高校のことを訪ねられた記事を見たのですが、こうおっしゃっています。普通は母校の選手達が頑張って勝ってほしいというのでしょうが、大谷さんは違うんですね。もちろん母校の選手も応援するのですが、他高校の選手も出場した人は精一杯頑張ってほしいというのですね。自分の高校が勝つという願いであれば、隣の人の願いとは違う。でもみんな負けても勝っても精一杯プレイしてほしいといえば、みな同じ願いですね。それが同じ一つの心でということとでしょう。そういう願い方です。たとえば病気のことでもそうです。自分の病気がよくなるようにと願うことは、隣の人にとってはまあ他人事でどうでもいいわけです。ですけど、病気がないほうがよいと願うことが、かえって、自分のいのちに優劣をつけて、生きられなくような見方をしている。みな死んでいかなければならないいのちを生きているのに、なかなか満足して死んでいけない、老病死を前にするとこの世に生まれたことを喜べず不安や空しさの中に投げ込まれる。病をもった自分をそのままに満足して生きられずに、自分を拒絶するようなありかたをしている。そういう問題を人間はみな抱えている。そういう意味で、自分も隣の人も同じなわけです。そんな中でもいのちを満足に生きたい、といえば、それは同じ一つの心で願うということでしょう。

だから、ほんとうに自分や他人のいのちに優劣をつけず、命をありのままに見て、ありのままに生きた人の智慧、つまり仏の智慧によって三悪道を脱けて自由になれる、というわけですね。この続きに書いてありますね、「この日みなが同じ一つの心で施しのご飯をいただけば、道を求める者たちの徳は大きいので、三途の苦しみから脱け、自由になることができる。」と。

四十八願もそうです。この第十願を境にして、仏道と菩薩道のことが書かれています。三悪道がないようにというのが個人の問題ではなく、仏道の問題にならないと、かえって裏目に出る。今日はそのお話はできませんが、いずれ確かめたいと思います。

そしてこの部分は最後はこう書いてあります。

「そうして目連や集まった僧侶たちは皆大いに歓喜して、目連の悲しみ泣く声はいつしか消えていきました。目連の母は餓鬼の苦しみから脱けることができました。」

第三場面

未来の仏弟子

それで、目連のお母さんが餓鬼の苦しみから抜けだして、それで終わりじゃ無いんですね。次の処はこうなっています。

爾時目連復白佛言。弟子所生父母。得蒙三寶功徳之力。衆僧威神之力故。若未來世一切佛弟子。行孝順者亦應 奉此盂蘭盆。救度現在父母乃至七世父母。爲可爾不佛言。大善快問。我正欲説。汝今復問。善男子。若有比丘比 丘尼。國王太子王子大臣宰相。三公百官萬民庶人。行孝慈者。皆應爲所生現在父母。過去七世父母。於七月十五 日。佛歡喜日。僧自恣日。以百味飮食安盂蘭盆中。施十方自恣僧。乞願便使現在父母壽命百年無病。無一切苦惱 之患。乃至七世父母離餓鬼苦。得生天人中福樂無極。
佛告諸善男子善女人是佛弟子修孝順者。應念念中常憶父母供養乃至七世父母。年年七月十五日。常以孝順慈 憶所生父母。乃至七世父母爲作盂蘭盆施佛及僧。以報父母長養慈愛之恩。若一切佛弟子。應當奉持是法。
爾時目連比丘。四輩弟子。聞佛所説歡喜奉行。
佛説盂蘭盆經 (書き下し文)その時、目連復た仏に白して言さく、「弟子所生の父母は、三宝の功徳の力と衆僧の威神の力を蒙 むることを得るが故なり。もし未来世の一切の仏弟子、孝順を行ずる者、亦た応に此の盂蘭盆を奉じて、現在の 父母乃至七世の父母を救度すること、為すべきやいなや。」 仏の言わく、「問うこと大いに善く快し。我まさに説かんと欲す。汝、今復また問えり。 善男子、もし比丘、比丘尼、国王、太子、王子、大臣、宰相、三公、百官、万民、庶人有りて、孝慈を行ずる者、 皆応に所生の現在の父母、過去七世の父母の為に、七月十五日、仏歓喜の日、僧自恣の日に於て、百味の飲食を 以て、盂蘭盆の中に安じ、十方自恣の僧に施し、乞いて願うは便ち、現在の父母をして寿命百年にして病無く、 一切苦悩の患、無からしめ、乃至七世の父母をして、餓鬼の苦を離れ、天人の中に生じて福楽無極を得せしめん と。」
仏告げたまわく、「諸の善男子、善女人、是の仏弟子、孝順を修する者は、まさに念念の中に常に父母の供養 乃至七世の父母を憶うて、年年、七月十五日に常に孝順慈憶を以て所生の父母乃至七世の父母の為に盂蘭盆を 作り、仏及び僧に施し、以て父母の長養慈愛の恩に報ずべし。もしくは一切仏弟子、応に是の法を奉持すべし。」 その時目連比丘、四輩の弟子、仏の所説を聞きて、歓喜し奉行す。
仏説盂蘭盆経

(あらすじ)
目連は再び釈尊に質問しました。「現在の仏弟子達の父母は三宝の功徳を蒙ることができます、それは僧の威力のおかけです。未来の仏弟子達も、この盂蘭盆を奉るならば、救済されるのでしょうか」
釈尊は言われました。「よい質問です。比丘、比丘尼、国王、太子、王子、大臣 、宰相、三公、百官、万民、庶人、皆、雨安居の最終日に、飲食を盂蘭盆に入れて、十方から安居に参加するためにあつまった僧侶たちに施しなさい。現在の父母が百歳まで無病で、一切の苦悩がないように、七世の父母にいたるまで餓鬼の苦しみから離れるように、願ってもらいなさい。」
「仏弟子達は、父母や七世の父母を憶い、盂蘭盆を作って仏と僧に施しなさい。それによって父母の恩に報い、この仏の法をたもちなさい。」
その時目連と出家在家の弟子達は、釈尊の説かれる教えを聞き歓喜して行じた。

目連の母や、その時代に仏法を聞いている人たちのことだけでなく、未来の仏弟子のこともいっているんですね。つまり私たちのことですね。そこで「盂蘭盆」がでてきます。盂蘭盆を奉る、といっているから、「倒懸」逆さ吊りを奉るでは通じないですね。飲食を盂蘭盆にいれてとあるので、これも、飲食を逆さ吊りに入れるのでは通じないですね。やはり入れ物です。供養の心を入れる入れ物のようなものなんでしょうね。

(*盂蘭盆の「盂蘭」はパーリ語のオーダナ(odana米飯)の意味という説(辛嶋静志「「盂蘭盆」の本当の意味 」)がある。D-Lの発音は入れ替わりやすい。口語ではodana→olanaになる。「盂蘭」の発音が当時の発音でolanaに近いらしく、納得しやすい説明ではある。)

帰依三宝

ともかく盂蘭盆を仏と僧に施すことで、仏法を保ちなさいというんですね。だから供養する、敬うということは、仏法僧の三宝を供養する、ということです。

僧というのはお坊さん、ということではなくて、僧伽(さんが)、集まりのことです。僧伽というのは仏の教えのもとで、老病死の問題、人間の問題を乗り越えていこうと、心を一つにして歩むひとたちの集まりのことです。同じ人間としてのことを問題にしているわけですから、能力の違いとか、職業の違いとか、男女とか、年齢とか、上下関係、優劣、関係ないんですね。同じ一人の人間として苦悩することを扱う。だから平等なんですね。ここもそうですね。お寺というのはそういう僧伽なんですね。皆さんいろいろな問題を抱えておられるし、境遇も違うけれど、同じ人間の問題を考える。私も偉そうに話しているようですが、私も同じ人間の問題に苦しむ。だから、それを乗り越えた人の生き方を知り、乗り越えた人である「仏」の言葉を聞かないといけない。その乗り越えた人のことを「仏」といいます。そしてその乗り越えた人の言葉を「法」というんですね。これで三宝ですね。ですから、三宝というのは、老病死の苦悩を乗り越えて確かな道を歩んだ人「仏」、そういう人の言葉「法」、そういう人と言葉を通して一緒にそういう道を歩もうとする人間関係「僧」の三つです。それを供養する敬って生きるということです。

じつは『盂蘭盆経』というのはそういうことが書かれているわけです。表向きは一見、母を助けるという親孝行、先祖を供養する物語に見えますが、ちゃんとよむと、餓鬼道に落ちるということは、いのちをそのままに満足できない、私たちのあり方を表していて、それを乗り越えるには三宝を敬って生きることが大事だということを説いているんですね。『盂蘭盆経』は中国でできた偽のお経という説があり、表向きだけ読むとたしかにそうなのですが、書いてあることはちゃんと仏教の教えからは外れていない、大事な事を説いているお経だと言えると思います。

歎異抄の言葉

私たちは、「先祖を供養する」とすっと言ってしまいますが、本当に大事にするということは、自分が今生きているいのちのあり方を確かめる、ということですね。そうでないと、ほんとうの供養にならない。だから親鸞聖人は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」と言うんですね。それだけ聞くと、えっと疑問に思うかも知れません。父母の供養をしないなんて冷たいなと思うかも知れませんが、親鸞聖人は、本当に供養するとはどういうことかを確かめずに、安易に父母の供養するとは言われないんですね。そして「わがちからにてはげむ善にてもそうらわばこそ、念仏を回向して、父母をもたすけそうらわめ。」つまり自分の力によってはげむことのできる善であるならば、念仏を回向して、父母をもたすけることもできるでしょう、しかしそうではありません、ということですね。「ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば」というのはつまり、「浄土」というのは仏に出会う場所ですから、確かな道を歩んだ仏に出会って、自分自身が自分のいのちを本当に生きなかったら、父母をたすけるといっても口だけだということですね。亡くなられた方が私たち生きている者にかけられている願いの声を聞かなければならないということですね。お盆に先祖が帰って来るというのは、そのように、私たちがかけられている願いの声を聞く、ということなのかもしれません。

『盂蘭盆経』をちゃんとよむと、そういう親鸞聖人のおっしゃっていることにも通じる大事なことが書かれているということがわかりました。そういうことで今日はこれで終わらせていただきます。

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