思いと存在と智慧(1)

[この記事は『崇信』二〇二三年十一月号(第六三五号)「病と生きる(95)」に掲載されたものです]

「病と生きる」と題して二〇一五年九月から書かせていただいている。医師として病の傍らにいるようで、遠いところに立っているのではないか。苦悩を見る眼差しを持っていないのに知ったつもりになっていないか。老病死をどう受けとめ、どう生きるのか。その課題を、医療現場の苦悩にとどまって確かめるということが大きなテーマであった。

「苦悩にとどまって」ということを言うのは、私自身が、「自分の苦悩を自分よりも知る人」との出会いによって支えられたからだと思う。世間では笑顔でいることが大事だ、いつまでもぐずぐず言わずに早く立ち直れという。苦悩の中で、そのことにかえって追い詰められるということがあった。あるいは医療や介護の講演会でも、こんな取り組みをしたら笑顔になった、という成果ばかりいう。医療現場においても、笑顔になったということの裏側で、患者の苦悩が置き去りにされているのではないかという疑念を懐いてきた。

そんな中で、世間の価値観では自分の苦悩はわからない、患者の苦悩もわからないと思っていたら、仏教の思索は遥かに深い心を見ていることを知った。なんと浅いところで絶望などと言っていたか。自分より自分の苦悩を知る智慧があると知った。そしてその智慧との出会いが、人を生かすということを知った。それは仏教徒に限らない。いままで紹介してきた私が直接に出会った人、本やメディアを通して出会った人は、苦悩の中で自分の苦悩を知る人に出会い、苦悩の中を生き抜こうとする、あるいは生き抜いた人であった。それを仏教ではこう表現する、ということは様々あるだろうが、それを私たちは、現実に病と生きる姿のなかに見ることができるだろう。しかし、そのことを語るときに気を付けなければならないことがある。

最近、朝日新聞デジタルの記事で、頭木弘樹氏の「「病気のおかげで」は本当?「立ち直りの物語」を求める心理の正体」(2023年9月15日)を読んだ。頭木氏は、「『つらい経験だったけど、成長できてよかった』『病気のおかげで、本当の幸福に気づいた』。重い病気や大変な経験をした人たちは、似たような「語り」をする傾向にある」といい、そのような語りのもつ問題を指摘する。「人は、立ち直らないままの人をなかなか許さない」といい、立ち直りが求められる圧力を感じるという。さらには、「悲惨だったけど、立ち直った」パターンは、感動を呼びやすいが、その感動は偽物であり、そのパターンをなぞられたから気持ちいいというだけだ、とまで言う。そして、「一番うまくできるのは、倒れたままでいること」というカフカの言葉が救いになったという。「治らない病気だと言われても、どうにか立ち直らなければいけないともがいていました。でもカフカの本を読んで、倒れたままでいいんだって、すごく衝撃を受けたんです」とカフカの言葉との出会いを語られる。

頭木氏の指摘は、自身も潰瘍性大腸炎という難病を患った、その苦悩からの問いかけである。冒頭でも示したような、笑顔を求めるばかりで、直面する苦悩を見ないという問題と重なる。一方で、私自身への問いかけでもある。私自身の語りを確かめておかなければならない。

これまで、「苦悩にとどまって確かめる」ということと同時に、「老病死の苦悩を引き受けて、その苦悩に応答しつづける」というような言い方で、病と生きるということを確かめてきた。それは「ゴータマが仏陀になった」ということの意味を確かめることでもあると受けとめている。そして仏陀とは、衆生の苦悩を知り尽くし、それを引き受け、その苦悩を乗り越えた人、苦悩の中を生き抜いた人、苦悩によって生きる意味を失わず輝かせ続けた人、人生の意味を創造し続ける人、などという言い方で受けとめてきた。

その際、「苦悩から立ち直った」というような言い方は避けてきたが、それは、頭木氏が指摘するのと同様に、「立ち直れ」というメッセージは、苦悩のただ中にある人にとって、力にならずかえって苦痛ですらあるということがあると思うからである。「たすかった立場」に立ったとき、「そう思えないから苦しんでいるんじゃないか」という苦悩を聞かなくなる。これは私が患者さんから問われてきたことでもある。しかし、考えてみれば「苦悩の中を生き抜いた人」と言おうが「苦悩から立ち直った人」と言おうが、それを結論のように掴んで、「そうならなければならない」と考えるならば、かえって「そうなれない現実」とのギャップに苦しむという意味で同じではないか。頭木氏も気の持ちようだとか、心を変えよという圧力に苦しんだという。

したがって、乗り越えた、生き抜いた、救われた、たすかった、という立場で何かを語るとき、もしその「思い」にとらわれ、心の変革をせまるならば、「そうなるべきである」という他者への圧力、あるいは、そうなれないという自分自身への圧力にもなるだろう。そういう語りになっていないか確かめなければならない。それが頭木氏の指摘であり、現に今悩み苦しむ私という「存在」をありのままに包む眼差しがないという悲しみの声でもあろう。

しかし、ここで二つの疑問が起こる。頭木氏が「立ち直りの物語」を圧力であると批判することの趣旨はよくわかるが、氏の言い方では一人の人間が立ち直った事実や、苦悩から見えることまで批判しているように聞こえる。その必要があるのか、ということである。その場合「立ち直る」ということの意味を確かめなければならないが、私は、苦悩に応えて生きる人との出会いに力をいただいてきた。そして私自身、苦悩の中でしか出会えなかった人や言葉があると思う。それは氏が言うように、偽物で、単にパターンをなぞらえて気持ちよくなっているだけなのだろうか。

そしてもう一つは、立ち直りの物語が圧力なのであれば、「倒れたままでいること」も圧力になりうるのではないか、ということである。「存在」の肯定であれば生きる支えになるが、単に現状を肯定するだけでは、様々な問題があってもそのまま放置して受け入れよという圧力にもなりうる。確かに私たちは、誰もが老病死を前にし、倒れこむしかないということがある。そういう意味でみな弱い人間である。その人間が、弱さを克服するのではなく、弱さを認めて弱いままに生きて行くには、弱さを見つめる「智慧」が必要なのではないか。苦悩の心は自力で変えられるものではない。その心をありのままに包む「智慧」の眼差しの中にあると知ったときに、その心に飲み込まれず、しかし変えるのでもなく、心のありようを確かめながら生きていけるということがあるのではないだろうか。そこには単なる現状肯定ではない厳しさもあるが、そのなかにこそ存在の肯定があるのではないか。だから、「倒れたままでいい」というメッセージは、立ち直るべきだとせまる世間の価値観から守ってくれる大事な面はあるが、私にとっては、その言葉だけではほんとうの支えにならない。

以上の二つの疑問について、次回もう少し確かめたい(つづく)。