タイで生きる人たちの物語(2)

 タイの東北地方を訪問した「逝き生きツアー」の前半は、「ライトハウス」と呼ばれる仏教の瞑想道場に宿泊した。私はここで上座部仏教の僧侶や参加者の前でお話をする機会をいただいた。「共に苦悩する心」という講題で話し、意見交換をすることができた。

 釈尊入滅の百年後ごろ、律をめぐり上座部と大衆部に分裂し(根本分裂)、仏陀の教説と律についての結集が再び行われたといわれる。タイの仏教はその上座部の流れを汲むが、根本分裂の思想上の意義についてここで論述することはできないし、タイの仏教を滞在した二日間のみで語ることはできない。ただ、タイの僧侶との交流の中で、大乗仏教の中の、浄土教の中でも親鸞思想に学ぶ者として、どこに立って仏教の課題を確かめなければならないかと考えたとき、その出発点はやはり、「同じ人間として」というところでなければならないだろう。

 そこで、釈尊出家の根本問題である老病死の苦の問題を、ALS患者さんの言葉を通して考えるという、本誌上で述べてきたことを話の軸に据えた。老病死によって生きる意味を失い「一人の丸裸の人間」となったとき、それでも生きてゆくことができるか、という問いである。梵天《ぼんてん》勧請《かんじょう》において釈尊は「不死の門は開かれた」(パーリ律大品)と述べたという。五比丘《びく》の一人に出会い法眼《ほうげん》を得た舎利弗《しゃりほつ》に対して目連《もくれん》が「あなたは不死を得たのか」(同上)と問う。この「不死」ということは、生きることを喜べなくなった私が、老病死によって崩れない生きる喜びを再び取り戻し、私が真に私として生きられるようなったということの一つの表現といえる。そういう単に生理学的な死ではないことを問題にしていなければ、「不死」の意味ははっきりしない。この仏教における根本問題を対話の中で確かめたかったが、残念ながら十分できたとは言えない。

 苦が滅する、苦悩を越える、ということが同じ課題となっていることは確かめられたといえるかもしれない。しかしその内容を押さえなければならない。安田理深師はいう。

自分だけ苦しみが無くなる、ということが宗教の問題ではない。苦しみを共にすると言うことが宗教の解脱なのです。安楽ということは、苦しみが無くなることではない。苦しみを共同する。共に苦しむという、そこにもう苦悩はないのです。そして、それが真に苦悩しておることなのです。問題が無くなることが信仰ではなく、問題に堪えていくのが信仰です。問題に堪える自己ですね。(安田理深『信仰的実存』)

 この「共に苦悩する」ことについて、対話をしたタイの僧侶は「一緒に溺れて一緒に浮き輪につかまっているようだ」と喩えた。「そもそも溺れないようにしなければならない」ということだろうか。後に考えたことだが、親鸞の立場なら、一緒に浮き輪につかまっている、というよりは「これ以上沈みようのない底まで一緒に付き合う」と喩えるべきかもしれない。

 しかし、瞑想を通して自己へ気づきを深めるという彼らの立場は、真実の自己を生きようとする点において、本願を依り所とする立場と違いはないともいえる。重要なことは、何が違うか、どちらが正しいかではなく、何が私の苦悩にほんとうに応えうるかということだろう。苦悩を越えるということについて、後半の村での滞在を通して引き続き確かめたい 。(次号に続く)

[『崇信』二〇一七年八月号(第五六〇号)「病と生きる(24)」に掲載]

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