時と場を失う

[この記事は『崇信』二〇二四年八月号(第六四四号)「病と生きる(104)」に掲載されたものです]

認知症外来に長らく通院されている方のことである。徐々に時間と場所がわからなくなる「見当識障害」が進行している。また最近会話が成り立たなくなってきたという。入れ歯をつけようとしても、何に使うものか理解できずつけさせてくれない、そして説明してもわかってもらえないのだという

言語の理解や表出の障害を「失語」という。それは見当識障害にも関係していると思われる。例えば、いつも見ている山に「○○山」だと名前をつけて概念化するから、○○山が見えるからここはいつもの場所だ、と把握できる。ところが「緑が深い山」としか受けとめなかったら、冬になればわからなくなるし、夕日がさして色が変わればわからなくなる。したがって私たちは、言語化し概念化して時間や場所を正しく把握しており、認知症はそれを失うことだ、などと考える。ところが、長年介護の現場に携わっておられる村瀨孝生氏は、著書の中でこのように言われる。

山を見ているお婆さんに「あの山、知ってる?」と聞いたことがある。「知っとるくさ。緑の濃い~山。色がよか色のしとる」と答えた。山の名前を聞いたつもりだった。お婆さんは目に映る山のあり様をありのままに語っている。

お婆さんにとっての山は名称ではなく、さまざまに姿を変える生きたもののようだった。春は桜の咲き誇るピンクの山。初夏は若葉が美しい緑の山。秋は黄色や赤色が彩る山。冬は雪が覆う白い山・・・・・・という具合に。

ぼくたちは空間を概念的に語っているのだ。「油山」という名称を共有できれば知っていることになる。だから春だろうが冬だろうが、朝だろうが夜だろうが、たとえ行ったことすらなくても「油山」と名前を知っているだけで他者と了解しあえる。でもそれは本当に「油山」を知っていることになるのだろうか。(村瀨孝生『シンクロと自由』)

「油山」と名前を正しく言えることと、「緑の濃い~山」と言うことと、どちらが山の本質を見ているだろうか。私たちは言葉で正しく認識しているようであるが、かえって言葉に縛られている。認知症によってむしろ言葉から解放されて、時と場を瑞々しく受け止めているということがあるのかもしれない。

  また、村瀨氏は別の箇所ではこのようにも言われる。

 半身麻痺のハナさんは座位を保つことすらできないのに、ぼくの体を洗おうとします。

 キミエさんは、自分の食べこぼしを拾ってぼくに食べさせようとしました。

徘徊するヨシオさんは付き添うぼくに、「君はどこに行きたいのかね?」と心配します。

 そのような気遣いにぼくたちの社会は気がついていません。時と場の移り変わりがあまりに速すぎて「見えない」のだと思います。そのことが常態化して「見ようとしなくなった」のではないでしょうか。認知症の症状ばかりがよく見えて、その人が見えなくなったのです。

そのように考えると、人として時と場を失ってしまったのは、認知症のお年寄りではなくて我々であるように思えていきます。(同上)

最初に紹介した方も、診察が終わり「お大事に」と声をおかけすると、「先生こそお体に気を付けて」と言われた。能力で人を見る言葉にとらわれていると、それを聞いて立場が逆だと笑ったり、言語能力を評価する材料にしたりしてしまう。そこにある気遣いに気がつかないのであれば、時と場を失っているのは、そんな見方しかできない私たちのほうだろう。言葉によってかえって見失うことがある。仏教の言葉でいえば、戯論(分別を生じる言葉)によって、私たちは本質を見失っているということだろうか。

しかしまた、本質は言葉を超えているというだけでは不十分で、私たちはその本質を指し示す言葉を必要ともしている。安田理深先生も、「法性は名言によって初めて人間のものになる」(『安田理深選集第四巻』二二一頁)という。だから、名言熏習(言葉の経験)の中にいる以上は、時と場を失う言葉ではなく、時と場を回復する言葉をたよりにしたいと思う。

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