[この記事は『崇信』二〇二五年四月号(第六五二号)「病と生きる(110)」に掲載されたものです]
二月号で、昨年末に救急搬送された父のことを記してから、ご心配のお声やお手紙をたくさんいただいた。ご報告が遅くなったが、幸い生命を助けていただき、執筆している三月現在も病院で闘病中である(*)。闘病という表現でよいのかどうかと思いつつ、敢えてそうしておく。(*父は2025年5月に還浄いたしました。)
そのため、住職がしてきたことを一手に引き受けることになった。これまでもお参りはしていたが、すべてのことを引き受けるとなると全く事情は違っていた。残されたメモから法要の予定を推測して、ご門徒さんに一件一件電話をして予定を確認し、何とかお参りを続けた。いろいろな相談の電話もかかってきた。いざ引き継いでみて、あの身体でよく続けていたものだと改めて苦労を知った。ご門徒さんから、「二階まで上がってもらうのが申し訳なくて。上がったときには息が切れていた。一歩一歩踏みしめるように階段を上がっておられた」と聞いた。
一時、普通に会話ができるまでに回復していた。だから本当であれば、意識がはっきりしているうちに、これまでの感謝や苦労をかけたことに対して、「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉を伝えるべきかもしれないが、照れくさいということもあり、またこれで最期だと言うような感じもして、なかなか言えないものである。ただ、お寺のことはちゃんと引き継いでやっていることや、ご門徒さんからいつも心配の声をいただくということ、まだまだ聞きたいことがあるから早く復帰してほしいなどと励ますぐらいであった。
一月下旬、今度は受念寺の役僧をされていた、西野教康師が命終された。私が学生のころからお世話になっていた方で、寺を長年支えていただいた。西野師も癌を患い、片肺を手術で切除されていた。息を切らしながらお勤めをされていたらしい。ご門徒さんも、西野師と語らいながら自身の病気を重ね、力をいただいたとおっしゃっていた。そして、そのような状況でありながら愚痴の一つもおっしゃらず、いつも溌刺とされ、またやさしく接していただいた。
父が倒れたのち、二か月ぶりにやっと休暇がとれたと思った二月のある日、再び状態が急変した。なかなか休ませてもらえないようである。しかし病気に休みはないのだから泣き言を言っている場合ではない。すぐに駆けつけたが、また集中治療室に逆戻りとなった。
その後何とか少し回復したが、前ほどの元気は無くなっていた。呼びかけてもすぐに眠ってしまい、食事もほとんど取れなくなった。少し話せるときに、「遅かれ早かれ僕も同じようになるのだから、しっかり今の姿を見せてもらうわ」と言うと、「そうやな」と小さく頷いた。
なかなか食事が取れなかったが、弟と二人で食事介助をするといつもより多く食べた。息子二人には言わなかったが、母には「まだこれで終わりたくはない」と言っていたそうである。以前の父であれば「おまかせだ」と言いそうでもあったが、今の状況で生きることをあきらめていないことを、力強く思った。
ちょうどその頃、胃瘻から栄養を入れながらお参りされているご門徒さんに、「医者にはあきらめられたが、なんとか生きている。執着心ですかね。」と尋ねられ、「欲には二つあると聞いている。病が治らないのに健康を求めるのは執着心で苦しみの元かもしれないが、病のままに人生を全うしたいという意欲は、菩提心というのではないかと受けとめています」と話した。父の言葉にも菩提心を見たいと思う。
しかし母は、父が弱っていく姿をみて、落ち込む一方であった。そのときに、山西睦子さんにお聞きした、加来雄之先生が岡本禮子さんに語られたという言葉を思い出した。
これからの禮子さんの仕事はね、如来からいただいた力を一つひとつ如来に返していくのですよ。それが、これからの禮子さんの大事なお仕事なんですよ。(中略)大事に丁寧に返していきましょうね。最後は、自分の体も全部お返しして如来の世界に還っていくのですよ。と、仰って下さったのです。(山西睦子「光芒を放って」『崇信』二〇一六年三月号)
自分で食べるという力も、立って歩くという力も一つひとつ返していく、と。だから、「今父さんは大事な仕事をしているんだから、残念がっていてはいけないのではないか」と言った。私の言葉にはよく反発する母もめずらしく頷いていた。大仕事をしている姿を、よくなってほしいと祈りつつ、目を離さずに見届けたい。






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