[この記事は『崇信』二〇二五年五月号(第六五三号)「病と生きる(111)」に掲載されたものです]
先日、多系統萎縮症と診断されていた患者さんが亡くなった。肺炎だった。
運動機能は低下してきていたが、病気の末期ということではなく、お話しはできていたし、食事も摂れていた。ところが重度の肺炎に罹り、酸素が十分取り込めないほどに呼吸状態が悪くなったのであった。その場合、治療としては抗生剤を使うが、効果が現れ肺の機能が回復するまで時間がかかるため、人工呼吸器で呼吸を補助しながら回復を待つ。
しかしこの方は、自らの意思で人工呼吸器の使用を望まなかった。奥様は大変悩まれた。肺炎さえ治療できれば、自由に動くことは難しくても、また前のようにお話しはできる。だから一度は治療を望まれ、大きな病院に転院した。しかしそこでご本人が人工呼吸器はつけないと意思表示され、最後はその意思を尊重したとのことであった。そして抗生剤による肺の回復は間に合わず、そのまま命終された。
どういう心で人工呼吸器をつけないことを選ばれたのか。それが知りたいと思った。満ち足りた人生を送ったから十分だという心で選んだのか。この状態で長く生きたいと思わないという心で選んだのか。どういう心で選んだかが大事であると考えてきた。しかし——。十分お話しができずその心はわからないが、仮に心境を聞いたとして、前者がよい、後者がわるい、などと果たして言えるのだろうか。ただ言えることは、この方が「置かれた状況の中で精一杯生き、そしてある道を選んだ」という事実だけではないのか。
しかしまた、そうだとしても、私たちが願われているのは、人生の意味を喪失し、死が生の終わりであるような「死への生」に向かうようないのちではなく、人生の意味を無限に創造し、死が生の完成であるような「浄土への生」に向かうようないのちを生きることではないか。
そうであるならなおさら、私たちは、先に歩まれた方の心を、よい心かわるい心かと評価するのではなく、その人がその人にまでなった歴史と、その歴史から湧出した悲しみ、苦しみ、喜びを、そのまま私を導く姿として受けとめるべきではないだろうか。
そのことは「往生」という言葉がもつ意味とも関係があるのかもしれない。
だから、仏土に往生するといっても、流転生死の中で死して生まれることを意味するのではない。それならなぜ「往生」と言ったのか。そこには「新しい生」という意味があるからにちがいない。すなわち、流転生死する生に死んで、仏陀に出会ってはじまる新しい生に生きるという意味である(出雲路暢良選集五『苦に賜わる道』七八頁「新しい誕生」)。このように「往生」が新しい生という意味をもちうるのは、仏陀に出会うということがあるからである。この一点を失えば、流転である。(宮下晴輝「シリーズ仏教の言葉(55)往生」『崇信』二〇一七年四月号)
あの人は満ち足りた人生を歩んだだろうかと問うことは、あの人は往生したかと問うことでもあろう。しかしそのことを「仏陀との出会い」ということなしに、死後に往生したとか現生で往生したとかと語っても、結局よしあしを決めて流転するあり方の中でのことである。
先立たれた人が何に出会ったのかは知る由もないが、少なくとも私が、その人とどう出会うのかは自分が決定することである。「往生するような人生を歩んだ人」として出会うかどうかが問われているのであって、いのちを評価することではない。
医療の選択が迫られたとき、どんな心境に置かれ、どんな態度をとるのか。それはいかなる態度もありうる。目の前の人がどんな態度をとったとしても、それは私がとり得る態度の一つを私に示してくださっているのである。そしてその心の奥底には、どんな形であれ人生を全うしてゆきたいという菩提心が流れていることは疑いようがない。なぜならみな苦悩しているから。苦悩するという形で真実を求めていると教えていただいた。
人間には生まれる前から背負い、死では終わらないような流転生死と表される苦悩がある。そしてその奥底に菩提心がある。だから仏に出会うということは、本当の意味で苦悩に出会うということでもあり、そのことが流転の苦悩を超える新しい生という意味をもつのではないか。






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