[この記事は『崇信』二〇二六年七月号(第六六七号)「病と生きる(121)」に掲載されたものです]
受念寺に併設する軽費老人ホーム「受念館」は、現在約四十名が入居されている。全室個室であるが、食事や入浴、クラブ活動、お寺でのお朝事などを通して、入居者同士で様々な交流がある。しかし人が集まればどうしても人間関係のトラブルも起こる。
佐藤さん(仮)と田中さん(仮)はもともと仲がよかったらしい。しかしある時期から田中さんは佐藤さんを避けるようになった。田中さんによれば、佐藤さんからたびたび暴言を浴びせられ、深く傷ついたため関わらないようにしているという。一方の佐藤さんは、「田中さんに意地悪をされている」と訴える。
その後、佐藤さんによる田中さんへの嫌がらせは次第にエスカレートしていった。本堂で他の入居者のお通夜が営まれた際には、その厳粛な場でわざと田中さんにぶつかり、田中さんが転倒しそうになったのを職員が目撃している。また別の入居者に向かって、「田中さんとしゃべるな」と怒鳴りつけていたこともあった。さらに別の日には、田中さんの居室のドアを蹴り、恐怖を感じた田中さんが職員に相談している。佐藤さんの言い分は、田中さんに意地悪をされたので仕返しをしたというものであった。
私はこの話から、どちらにも言い分があるとか、どちらにも正義があるなどということを言いたいのではない。暴力をふるっているのは佐藤さんであり、被害を受けているのは田中さんである。まず伝えなければならないのは、暴力をなしてはいけない、ということであろう。
では、それでも事態がおさまらないとしたら、どうすればよいだろうか。危険人物として退館してもらうのか。警察に通報するのか。認知症による行動かもしれないとして、薬による対応を考えるのか。
もちろん安全を守るための対応は必要である。しかしそうした対応を考えるとき、私たちはしばしば「なぜ佐藤さんはこのような行動をとるのだろうか」という問いを忘れる。暴力を認めてはいけない。しかしその次に、「なぜ暴力をなすのか」という問いがある。佐藤さん自身が抱えている苦悩があるのではないか。
もっとも、当事者の田中さんの立場からすれば、それは必要のない問いである。殴られている最中に、なぜこの人は殴るのだろうと考える人はあまりいない。まずは「やめなさい」である。そしてそれを指摘することは決して“意地悪”ではない。殴っておいて被害者のような顔をするのはおかしい。例えば職場でパワハラが行われているとき、加害行為を指摘した側が責められるとしたら、全くの顛倒である。
当事者ではない者が「なぜ人は悪をなすのか」と問うとき、「どちらも悪い」「立場が変われば正義が変わる」などという前にまず確かめなければならないのは、何が傷つけられ、何が守られなければならないのかということである。『崇信』二〇二五年十一月の巻頭言で平野喜之さんが指摘していたように、「逆転しない正義」とは何かを見失ってはならない。何でも相対化してしまえば、本来向き合うべき問題まで曖昧になる。
しかし同時に、その巻頭言は「『悪いやつをやっつける正義』から我々を目覚ましてくれ」と結ばれている。私たちはどのような正義に立てばよいのか。
佐藤さんはその後「もう馬鹿なことはしません」と語った。しかし、その舌の乾かぬうちに同じことを繰り返している。そこにあるのは、単なる個人の悪意なのか、それとも人間存在としての深い苦悩なのか。
もし暴力という形でしか叫べない深い苦悩があるとすれば、暴力を厳しく諫めつつも、佐藤さんをただ「私とは違う危険な悪人」として排除して終わるわけにはいかない。佐藤さんが抱えている人間としての問題を、私自身の問題として聞かなければならない。暴力を止めることと、その悪をなさざるを得ない悲しき根源をたずねること。その両方の課題を抱きつつ仏の教えにたずねるところに、「悪いやつをやっつける正義」を超える道が開かれるのではないか。






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