衆生や愍れむべし

 大学病院では神経内科医としての仕事以外に、リハビリ科を担当することがあった。神経疾患のリハビリ以外に、心疾患のある方が心機能などを回復するための「心臓リハビリテーション」というものがある。あるとき重度な先天性心疾患で、心臓移植を待機しているお子さんを担当することがあった。心臓移植は「脳死」と診断された人からの臓器提供によって成り立つ。その機会は十分とは言えず、どのぐらい待てば良いのかもわからない。

 脳死や臓器移植については様々な意見がある。人の死に線を引くことができるのか、他者の死を前提とした医療でよいのか、など否定的な意見もある。私自身そういう意見に賛同するところもあったのだが、頭の中で思考していただけでは起こらなかった感情が、実際に患者さんを前にすると起こる。何とかしたい――このままでは命を落としてしまう人を前にしたとき、単純にそういう思いが起こる。その人自身の「ただ生きたい」という声を無視することはできない。それは単に感情的なことだけではない。神経難病の患者さんが「もう生きていくことができない」と生きる意欲を失う姿を見ることがある一方で、ただ生きたいという生きる意欲を目の当たりにしたとき、意欲は否定されるべきものではなく、人間が生きるということを支える根本であることを改めて知らしめられる。

 しかしそれには制約がある。移植を待つ人の「ただ生きたい」という意欲は、同時に脳死と診断されるに至った人にもあったはずである。神経内科では脳死の診断もするため、実際に脳死の人を診ることもある。その両方を目の当たりにする者として、誰かの「ただ生きたい」という希望の実現は、別の誰かの「ただ生きたい」が崩れた上に成り立っているという事実から目を背けることはできない。

 複雑な現代医療の事情を持ち出さなくても、社会的な視点でも、自分が生きるということが、他者の地位を奪うことの上に成り立つということがあるし、食物連鎖の視点でも、他の生物のいのちをいただいて自分のいのちを支えているということがある。それを「いのちは決して傷つけてはならない、殺してはならない」と言っても言うだけでは虚偽だろうし、「自分が生きるためだから仕方がない、当然だ」と開き直ることもまた自らのいのちの意味をも貶めることになる。自分が生きるために他者を傷つけてよいと認めることは同時に、他者が生きるために自分が傷つけられることを認めなければならないことでもあろう。もし臓器移植が「自分が生きるために必要だから他者の身体を利用して当然」という態度で行われることを認めるならば、「自分の身体もまた他者から利用される」ことを認めなければならない。いのちの意味はどこまでも空虚化できる。

 「衆生や愍《あわ》れむべし、互いに相《あ》い呑食《どんじき》す」(『過去現在因果経』)移植医療は臓器を与える側が与えられる側に施す慈悲の心で語られることがある。しかし、移植を待つ人と脳死に至った人が共にいのちの尊厳を認められる世界にほんとうに求められることは、共に愍《あわ》れまれる衆生であるという自覚ではないか。そこにいのちを互いに空虚化することを共に超えたいという願いがある。

[『崇信』二〇一七年十一月号(第五六三号)「病と生きる(27)」に掲載]

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