自己に帰ろうとする意欲

[この記事は『崇信』二〇二三年八月号(第六三二号)「病と生きる(92)」に掲載されたものです]

先日、最近認知症外来に通い始めたあるかたが、話し始めるなりこうおっしゃった。「何もする気が起こらない。早く死んでしまいたい」と。お話を聞いていると、大変ご苦労されたという。弟は持病を抱えていて、ずっと世話をしてきた。少し落ち着いたと思ったら、今度は母が脳梗塞になり、長年介護をしてきた。だから私は自分のことに時間を使うことがなくて、人のためにばかり使ってきた、と。しかし今は弟も母も亡くなり、やっと自分のために時間を使うことができる。けれども何をしていいかわからない、何をする気も起こらない。だいたい、何かしようと思っても身体がいうことを利かない、生きていてもしょうがない、という。

もし自由に動けて、何でもできるなら何がしたいですか、とたずねた。するとディズニーランドに行きたい、と。昔から好きでよく行っていたらしい。ディズニーランドには夢があるでしょう、だから好きなんです、といわれる。

それを聞いて皆さんはどう思われるだろうか。私も好きだからわかる、というかたもあるだろう。そんな夢を追いかけるなんて空しい、もっと確かなものを見よ、というかたもあるかもしれない。私は、まだ意欲があるではないか、と安心した。しかしその意欲は、外には夢を求めているが、内には自分を拒絶しているようにも思えた。

無我の教説は、五蘊(色・受・想・行・識)の一つ一つについて、どれも自己ではないと確かめることを通して、どこにでも自己をつかみ、自己でないものを自己とする私たちの我執を明らかにする。五蘊を通して生活経験を確かめる。しかし、その生活経験を自己として喜べないという場合において、我執ということはどういう問題を提起することになるのか。つまり「あなたが掴んでいるものは自己ではないですよ」と説いても、「いや、わたしが掴んできたものはもう崩れました」とならないか。私たちを苦悩させている執着は、経験によるものだけではないのではないか。

そのことに関連して安田理深先生は、真の愛着処ということを解明したのが阿頼耶識の教説であるといい、このように述べられる。

漠然と人間の五蘊だけ考えると、五蘊を愛するとも言えるが、一向苦受処においてはどうか。ここではむしろ五蘊の無いことを望む。死にたい。自殺の要求、自殺とは五蘊に絶望しているが、かえって深く自分を愛しているのではないか。自殺というのは、苦というものがあり、苦をもった自分がある。その苦をなるべく離そうとするが、どうしても離れぬ場合に、苦から自分の方をはねのける。苦から自己を遮断する。苦の五蘊を捨てて、楽の五蘊を取ろうとする。苦の五蘊との関係においてある自我を改めて、楽の五蘊との関係をもとうとする。かくて五蘊もまた、真の愛着処ではない。(『安田理深選集第二巻』一〇五頁)

自殺の要求にまで行き着くような、自己を拒絶するような我執には、経験をまたないような根深いものがあるということか。さらにこのように言われる。

倶生起の煩悩は、常という一字であらわす。いかなる場合でも起こっている。生まれながらである。経験をまたぬ。分別起の煩悩は経験をまって起こる。思想生活というようなものである。末那識の〔無明〕は、人間を凡夫と規定しているような無明である。凡夫に起こる無明ではなく、存在規定としての無明である。存在の上に起こる無明ではない。 (『安田理深選集第三巻』五九頁)

夢の国を求めるのは空しいという説教で、気がつき消えるような煩悩は分別起であり、「存在の上に」起こっている。「存在を規定する」ような倶生起の煩悩は、気づけば消えるというものではなく、気づけばより顕かになるものである。

自分が自分に帰りたいと求める意欲の真の愛着処は、豊かな存在である阿頼耶識である。しかしその求める心は我執と深く結びつき、かえって自己を二つに分けて、自己の存在を貧しくし、拒絶している。空しいものを掴んでいると説教する者もされる者も、自己に帰ることができないあり方をしているという意味で同じところにいる。しかし意欲がなければ、自己に帰ろうと歩むこともできないだろう。