追放状態の中で

「先週からちょっと咳がでているんです。いま話題の新型コロナウイルスじゃないでしょうね」診察中一度も咳をすることなく、発熱もない奥様のことを、心配とも世間話ともつかない口調で尋ねられる。奥様はそれを聞いて笑っておられる。

日本では昨年もインフルエンザで三〇〇〇人以上が亡くなっている。それでもいま特に新型コロナウイルスに対して不安を懐いているのは、迫り来る未知のものであるというだけでなく、連日報道される一人一人の死が個人の死として見えているからかもしれない。三〇〇〇人という抽象化された数になったとき、かえって死が見えなくなる。そういう意味では、いまの不安は、普段死を忘れて過ごしている我われが、死に向き合っていることの表れなのかもしれない。

死と向き合うということが、生命を守るということである場合、もし私が感染したら、病院の患者さんの生命を危険にさらすことになるのだから、できる限りの予防をする責任がある。一方で、感染予防を厳密にするなら、みなが行動を制限せざるを得なくなり、経済的にも心理的にも行き詰まる人が現れる。どんな行動が生命を守ることになるのか。

生命を守るということは、ときにかえって暴力的になる。自分の健康を脅かすものに対して、執拗なまでに攻撃する。電車で隣の人が咳をするだけで口論となる。感染者の出たライブハウスにたまたま行っただけで無責任だと非難する。トイレットペーパーがなくなるというデマを聞いて、我先にと人の分まで買い占める。健康を求め、幸せを求める心が、ウイルスそのものより人を傷つけ、社会を混乱させるということも現に起こっている。

そんな世間の騒ぎの中で、神経難病の患者さんはむしろ気丈である。感染症のように突然現れ、健康を脅かすだけではなく日常を奪われる不条理は、すでに身をもって知っておられる。人生における確かなものについて、疑惑を生じさせるようなものはすでに訪れているのである。

この機会にカミュの『ペスト』を読みかえすと、現在の状況に重なることが多い。その中で舞台の地であるオランについてこのようにいわれている。

「この町でそれ以上に特異なことは、死んでいくのに難渋を味わうということである。(中略)すべてが健康を要求している。病人はこの町ではまったくひとりぽっちである。」

カミュは、ペストは追放状態をもたらしたという。「すべてが健康を要求している」世の中では、病を生きるということの意味が認められない〝追放状態〟に置かれるといえる。そして病を生きる苦悩は避けるべきものであり、理解するものではなく、それゆえに誰にも理解してもらえない。そういう、いわば二重の追放状態とも言えるような孤独もまた、神経難病の患者さんはすでに味わっている。

カミュはこのようにもいう。

「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば、誰一人、まったくこの世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ」

誰もがみな、人生の喜びが奪われていく老病死の無常の中にいる。それを共に乗り越えるのではなく、個人の幸せを求める心は、かえって人間同士の連帯を容易に崩すということを、改めていま目の当たりにしている。人間として自分は何をすべきか、どんな心で難局に向き合うべきかが問われている。

[『崇信』二〇二〇年四月号(第五九二号)「病と生きる(53)」に掲載]