差別とは何か

多発性硬化症《たはつせいこうかしょう》(MS)という神経疾患がある。神経細胞を覆っている髄鞘《ずいしょう》という部位に対して自己の免疫が誤ってはたらき、神経障害が多発する。投薬によって症状は一旦改善するが、繰り返し再発するため、そのつど治療が必要になる。

大学病院にいた頃、ある男性をMSと診断した。この疾患は比較的若い人が発症する。その方も二十代であり、婚約していた女性がいた。しかし、MSと診断されたことで婚約が破棄になったと聞かされた。病が原因で人と人とが離れていく。そのことをどのように考えたらよいか。

このことを思い出したのは、昨今しきりにオリンピック組織委員会の会長が女性蔑視発言をしたことが取り沙汰されていて、差別について考えるからである。会長の発言も問題であるが、その差別発言をした会長を「老害」などといって貶めることもまた問題である。女性という理由で相手を貶めるのが差別であるなら、老いという理由で貶めるのもまた差別である。差別を批判する側がまた差別していることに気づかない。

ある朝の情報番組では、性差別のチェック問題といって「私は保育士、パートナーはトラック運転手…」という問題を出し、登場人物の「私」を女性だと思い込んでいることを、無意識の性差別だ、などという的外れな指摘をしていた。区別と差別の違いもついていない。かつて大谷大学で谷真理先生に、「黒人だ」「目が不自由だ」「女性だ」というのは区別であり、それを「自分よりも劣っている」と見た瞬間、差別になる、と教えていただいたことを思い出す。(注)河田光夫氏は『親鸞と被差別民衆』の中で、差別するというのは善人意識だと指摘する。「自分のほうが有利だと思っているから、だから差別ということは生まれてくる。」

病気の相手を、自分より劣っているとみる意識は、病気でない自分は有利だとみる意識から生まれている。それこそ無意識の差別意識だろう。河田氏は著書の中でチャップリンの『街の灯』という映画を取り上げる。目の見えない少女がチャップリン演じる男性に出会う。男性は貧乏で容姿も良くない。しかし少女は富豪のやさしい男性として思い描く。少女の目を治すためのお金を揃え、手術を受けるというときに男性は去る。目が見えるようになって偶然再会した時、少女は気づかず、浮浪者がきたと追い払おうとする。そのとき手が触れ、目をつむって触れて、あの男性だと気がつく。それは目が見えるようになって、かえって見えなくなることがあると少女が気づいた瞬間でもあった。目が見えなくても、ではなく目が見えないからこそ見えることがある。河田氏は「ハンディになるのは今の社会のあり方から見てそういうことになるだけであって、本当はそういうものではない」と、ハンディをマイナスとしか見られない社会のあり方を指摘し、ハンディからこそ、その人の個性があらわれてくると述べる。

このことについて、児玉曉洋先生は唯識三性説に触れて明瞭に述べられる。

「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》と円成実性《えんじょうじつしょう》が「矛盾対立の概念である」(安田理深)ように、差別と平等は矛盾対立することとなる。しかし、差別と平等がともにそこにおいて成り立つ根拠が、区別である。区別が、自他差別識によって実体化されたとき、差別となる。区別が、平等性智《びょうどうしょうち》によってその本来性を回復したとき、その区別は、一如を表現する個性となる。」(『児玉曉洋選集第四巻』二四八頁)

平等性智に触れなければ、自分の中にある、存在に優劣をつける意識によって、区別(依他起性《えたきしょう》)は容易に差別(遍計所執性)となる。病をもった相手だけでなく、病をもった自分も含めた、存在の意味を貶めていくような意識が自分自身の中にある。そしてその意識を、本来性を回復する平等性智よりも優先して当たり前の社会にいる。そこに差別の根深さがあるのではないか。本来性を失うことに苦悩するという点で同じ者どうしが、本来性を傷つけ合っている。

[『崇信』二〇二一年四月号(第六〇四号)「病と生きる(65)」に掲載]

(注)この箇所の文脈は、「『私は保育士』と言った人を女性だと思った」という「想像」は勘違いであって、そこに相手を蔑む意図はなく、「無意識の差別意識」ではないと考え、それよりも「無意識の差別」というのは、「病気でない自分は有利である」という立場から相手を蔑んでみるような「善人意識」が問題であって、自分が正しいと考えているから、自分は間違っていると自覚している場合よりも相手を傷つけていることに気がつきにくい、という問題提起をするということでした。しかし、「『私は保育士』と言った人を女性だと思った」という「想像」を、区別であるといって発信するという行為自体が、「男性保育士」を排除する想像を合理的であると容認し発信していることになり、差別を生み出す社会構造に加担することである、というご指摘がありました。そのようなことに無自覚であったことを顧み、自覚的であるよう努めたいと思います。なお削除して無かったことにするのではなく、取り消し線をいれて再検討できるよう残しておき、この問題についてさらに学びを進めてまいりたいと思います。(2021年6月21日追記)

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