第10回 人間であるが故の苦悩(3) —孤独とは何か

テーマ
孤独とは何か
要旨

誰も自分の死を代わる者はいないのであり、それゆえに我われはかけがえのない生と死をもついのちを生きるものであるが、またそれゆえに「独りぼっちで死んでいくいのち」という孤独をどう乗り越えて、いのちを全うしていくのかという課題を抱えている。その課題は、それぞれの境遇はさまざまであるが、その境遇にかかわらず人間はみな持っているといえる。したがって「さみしい」ということに人間が現れているのである。その人間の問題を乗り越えたのが仏陀であり、仏陀とともに、境遇を超えて、同じ人間としての課題を乗り越えようとする開かれた人間関係が「僧伽」である。しかし我われは自我の関心の中でしか老病死の苦悩を受け止められず、それゆえに問いを共有することができない。「僧伽」はいかにして成り立つのか。

「自己とは何か」という問いを、私がいかに生きるかという問いにおいて確かめた。私がいかに生きていくかということは、いかに死んでいくかという問題である。それは突き詰めれば、人間は「独りぼっちで死んでいかなければならない」のであり、ほんとうに満ち足りて死んでいくということはあるのだろうかという問いである。その問いは、人間に「さみしい」という声となってあらわれる。その「さみしい」という声を隠さずにあらわし、人間が生きるとは何か、ほんとうの人間同士のつながりとは何かを問い続けた一人の医師、早川一光《かずてる》氏(1924-2018)の姿をとおして確かめたい。

2017年4月1日に放送された、ETV特集『こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ』という番組に出演された(授業で供覧する)。早川氏は在宅医療のさきがけであり、病院でなく慣れ親しんだ家で過ごし、家族に手を握られながら最期を迎えるような、〝畳の上の大往生〟を理想として、病院を出ても安心して暮らせる医療を整えたいと、京都西陣で地域医療に尽力してこられた。そんな早川氏自身が、みずから築いてきた在宅医療の制度で療養する中で、問いかけてきたことがあった。在宅医療の制度は整えられつつあるが、大切な何かが置き去りにされているのではないかと問いかける。

「さみしい。病気をしてから僕の胸を何度もよぎる感情です。心の奥深いところで常に流れているこの寂しさを知ったとき、僕は驚き、動揺した。畳の上の養生は極楽、と在宅療養を語ってきた。けれど畳の上にも天国と地獄、どちらも存在していることを知った」(ETV特集『こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ』2017年4月1日放送)

このように、自身が進めてきた在宅医療を手放しで肯定するのではなく、そこにある問題について身をもって語られる。自身の「さみしさ」「地獄」というような苦しみを隠さずに語られるのである。

このことについて、ある医療関係者は「そういう人は在宅医療に向いていない、病院の方がいいのだ」などという。独り死に行く孤独とは、はたして状況や性格の問題だろうか。そうはなく人間であるが故に抱える問題であるということは、「老病死を見て世の非常を悟る」という四門出遊の物語と、神経難病や認知症と診断された患者の声を通して、これまでにすでに確かめてきた。

 

同じ問いを抱えて

孤独ということについて、宮下晴輝先生は次のように述べる。

ひとりで死んでいかなければならない不安、それはまさしく老病死する身体をもっていのちを生きる衆生の中で、人間だけにある。人間だけがひとりぼっちで死んでいかねばならない不安の中で苦しむのです。このことは人間であるからその苦しみがあると捉えなおすことができます。ですから、私が寂しくなったのは私のせいだと思う必要はありません。(中略)それは私の生活がだらしないとか、そんなところから来ているのではないのです。だらしない人も立派な人もみな、寂しい。人間であるからそうなるのです。やがて死んでいかなければならない、そのようなものが根っこにあるわけで、誰もが直面している問題です。そのような意味で、私たちが人間であるというその事実は実に驚くべきことなのです。実に厳粛であるともいえます。(宮下晴輝『仏教は何を教えるのか』p.35-36)

このようにひとり死んでいかなければならない不安、孤独ということは、人間であるがゆえの問題であると述べられる。つまり、男か女か、能力があるかないか、貧しいか豊かか、教養があるかないか、状況がどうか、性格どうか、など人間の条件に関係なく抱える問題であると押さえる。宮下先生は「さみしい」ということに「人間」が現れている、という。境遇にかかわらず 「独りぼっちで死んでいくいのち」という孤独をどう乗り越えて、いのちを全うしていくのか、という課題を抱えているのである。

『無量寿経』には次のように述べられる。

人、世間の愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有も代わる者なし。(『無量寿経』巻下, 真宗聖典p.60)

この世に生まれ、死んでいくということはそもそも独りであり、誰も代われないことである。しかしだからこそ「かけがえのない」私のいのちをどう生きるかということが課題となる。そのいのちを独りぼっちでむなしく死んでいくのではなく、独りだけれど、無限のつながり中で生きるいのちを、自由に、満足して生き、そして死んでいく。そういう道があるのではないか。そういう道を求めているのではないか。第5回で老病死の苦悩は生きる意味への信頼を失うということということを確かめたが、第6回では、「ほんとうに生きる道を求める心」があるからこそ苦悩するということを確かめた。苦悩の中に「ほんとうに生きる道を求める心」があるのである。しかし第8, 9回では、その求める心が、自分のつかんだ意味、自分のつかんだ私(我)を求めるならば、自由でなくなるということを確かめた。

このようなことが人間には問題となっている。そして、それに応えたのが仏陀である。この人間としての苦悩に対して、ゴータマが見出したことを児玉曉洋先生はこのように述べる。

つまり独りぼっちで死んでいくということは、人間の避けがたい運命、定めである。それを乗り超えようなんて思った人は誰もいない。ところがゴータマ・シッダールタは、それを自分の問題にした。「老・病・死を見て世の非常を悟る」[『無量寿経』聖典三頁]と。

ゴータマは、その老病死を必然的にともなう生、独りぼっちで死んでいくいのちでなく、一切衆生と共に永遠に生きるいのちをついに見出した。それが、仏陀がこの世に誕生したことの意味であり、無量寿、無量光である大悲の阿弥陀仏が、この人間の世界に人間となって現われ出たということなのです。(児玉曉洋「一人・歴史・社会」『児玉曉洋選集第四巻』p.135)

それぞれの境遇がどうあろうとも、「独りぼっちで死んでいくいのち」という孤独をどう乗り越えて、いのちを全うしていくのかという課題を抱えている。そしてその課題を「自分の問題」とし、それを乗り越えて、「一切衆生と共に永遠に生きるいのち」を生きたのが「仏陀」である。したがって、仏陀という言葉は、同じ人間としての課題を乗り越えた、一人の人間像を表す言葉である。

しかし我われは、自我の関心で老病死を見る。そのことについて児玉曉洋先生はこのように述べる。

「無明」ということは、仏の説かれる一如平等の世界、つまり「十方衆生」と本願が呼びかけているような、そういう世界、本当に私とあなたにおいて一つである心の通い、そういうものが分らないということです。そのような自分の心に従って色々な行為、生活をするのだけれども、その行為、生活は、結局「わたしがそう思うんだ」「自分はそう感ずるんだ」「自分はそうしたいんだ」と、要するに最後は自分というところに閉じこもってしまう。そうすると、そういう心から起った業の報いを受けて「自在を得ず」、つまり自由でないと。(児玉曉洋「”いのち”を喚ぶ声」『児玉曉洋選集第1巻』p.68-71)

「私はこうありたい」「あなたはあなたの思うようにすればよい」と私は私、あなたはあなた、というところで交わるところがない。私が私でありたいということは、ほんとうの自己ではない「我」を求めるような、〝個人的な祈祷〟の中にあり、そもそも「問い」が共有できない。孤独という問いを共有できないという意味で、ただ孤独なのではなく「孤立」している。だから「ともに苦悩する」ということができないのである。番組内で早川氏が「大切な何かが置き去りにされている」と言うことはこのことを問題にされていたのではないだろうか。20年前の松田氏と早川氏のやりとりが紹介される場面で、早川氏は、松田氏を診る側の立場で、

「死ぬとき、人は皆、苦しみます。その苦しみも、人によって、皆、違います。しょせん、山か川、峠を越えないと、彼岸には着けません。その川渡り、山登りに、最後まで付き合っていくのが、私の仕事、主治医の仕事です。見えつ、隠れつ、ついていきます。」(ETV特集『こんなはずじゃなかった 在宅医療 ベッドからの問いかけ』2017年4月1日放送)

このように、皆苦しむというその苦しみに付き合っていくと言い、逆に診られる立場となった現在の早川氏は、

 「最後、僕が失ってはならんものは、生きていくしんどさをしみじみとかみしめて、生きていく患者の、死にゆく瞬間の喜びと、わずかな喜びと、たくさんの苦しみをじっと見てくださる皆さんと一緒に、生きていることに、もういっぺん、自分がね、素晴らしい人生であったということを、かみしめてみたいと思ったのは、今日なんです。」(同上)

と、「生きていくしんどさをしみじみとかみしめて」苦悩をともにする人たちと一緒に生きるということを述べられる。苦悩をともにし、ともに乗り越えていく人間関係が求められていると言える。

 

僧伽—開かれた人間関係

このように、人間はみな孤独という問題を抱えているが、それぞれが孤立するのではなく、さまざまな条件を超えて、同じ人間としての課題を、仏陀とともに「生きること」を学び(法)、乗り越えようとする、開かれた人間関係の集まりが「僧伽」(saṅgha, saṃgha)と呼ばれる。児玉曉洋先生は三宝(仏法僧)について、実存、真実在の人格的な現れが「仏陀」であり、言語的な現れが「法」であり、社会的な現れが「僧伽」であると述べられる。また「僧伽」を「独立者の共同体」と表現する。それぞれ個が個として尊重されながら、その個が孤立するのではなく、同じ問題を乗り越えようとする共同体ということである。

その「僧伽」の性格について、経典や経典の注釈書には次のように語られる。

さらにまた尊師よ、王たちも王たちと争い、クシャトリヤたちもクシャトリヤたちと争い、ブラーフマナたちもブラーフマナたちと争い、家主たちも家主たちと争い、母も息子と争い、息子も母と争い、父も息子と争い、息子も父と争い、兄弟も兄弟と争い、兄弟も姉妹と争い、姉妹も兄弟と争い、友も友と争う。

しかしここでは、尊師よ、私は比丘たちを見るに、和合し、喜び迎え、争わず、乳と水のようであって、互いに愛情をこめた眼で見つめあって住んでいる。尊師よ、私はこれ以外に他にこのように和合している人びとの集まりを見たことがない。
(『法尊重経』中部経典 89, Dhammacetiyasutta; Majjhima Nikāya, PTS vol.2, pp.120-121)

仏陀の出現は楽しい。正法の教説は楽しい。
僧伽の和合は楽しい。和合しているものたちの修養は楽しい。
(『ダンマパダ』(194) Dhammapada 194, p.55)

「和合」(sāmaggī)とは、心を同じくすること(sama-cittatā)、心を一つにすること(eka-cittatā)であり、それもまた楽しみにほかならない。また「和合しているものたち」(samaggānaṃ)、心を一つにするものたちには(eka-cittānaṃ)、仏陀の言葉を学ぶこと、あるいは厳しい修養を実行すること、あるいは沙門の法を実践することができるから、それ故に「和合しているものたちの修養は楽しい」と説かれたのである。
(『ダンマパダ注 194』(Dhannmapada-atthakathā, vol.3, pp.249-250)

このように、さまざまに生きる人間同士が、互いに争うのではなく、同じ人間としての課題に向き合い、心を同じくして学ぶ集まりが、「僧伽の和合」として表現されている。人間を条件で区別することなく、同じ人間であるがゆえの苦悩に立って、ほんとうにいのちを全うする道を尋ねる。そこに苦悩をともにするということがある。

 

「ともに」を妨げるもの

しかし先にも確かめたように、我われは、「苦悩をともにする」といいながら、〝個人的な祈祷〟に留まり、問いを共有するということが難しい。我われの中に、開かれた人間関係を妨げるものがあるのである。

「あなたはどういう人であるか」と尋ねると「私は金持である」とか「私は日本人である」とか「私はハンサムだ」とか、あるいは「私は僧侶である」とか、そういう物質的・文化的・社会的な条件をもって自分としているのですね。それで端的に「私もあなたも阿弥陀の子」と言えない。「私もあなたも同じ一個の人間だ」とこういえない。何かそこに老少善悪というような在り方に固執し、それをもって自己としてしまう。こういうような生き方をしているのですね。だからそういう差別的な生き方、つまり凡夫としての在り方から「孤独」とか「対立」「不安」「争い」ということが起ってくるのです。(児玉曉洋「”いのち”を喚ぶ声」(児玉曉洋「”いのち”を喚ぶ声」『児玉曉洋選集第1巻』p.68-71)

このように日常生活の中において、自我の関心が優先され、自我を超えた人間関係である「僧伽」が成立しないという問題がある。次回はこのことについて考えていきたい。

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