第13回 ほんとうの希望とは何か(1) —生きる意欲とは何か

(第12回はディスカッション形式の授業だったため、まとめはありません。)

テーマ
生きる意欲とは何か
要旨

我われには「私が私でありたい」「私としていのちを全うしていきたい」という願いがある。その願いは人間の根本であるともいえるが、我われはほんとうに欲しているものを知らずに求めるために、その思いが行き詰まり、ときに自他を傷つける。どんな「私」が自己を求めるかということが問題である。「私が私でありたい」と願う心には、いのちを傷つける心といのちを愛する心がある。我われはいのちを量り、いのちを傷つけるようなところにいるが、だからこそいのちを量らず無条件に愛するところに生きよと願われている。仏教の思索の歴史は、「私が私でありたい」と願う心において、「思いどおりにしたい」という「渇愛」が行きづまった底に、ほんとうの自己を生きることを支える「清浄意欲」「願」を見出していく。

第8回〜第11回のまとめ

これまでの第8回〜第11回では、「人間であるが故の苦悩」というテーマで、苦悩の中にはいかなる人間の姿が現れているのかということを学んだ。第8回では、老病死によって崩れるような意味をつかむのではなく、また意味を捨て去るのでもない、苦悩の如実に知り、何もかも飲み込む老病死の中で、崩れないいのちの意味を求めてあゆむ道を「中道」として確かめた。また人間とは苦悩するものであると受け止め、苦悩を直接的に取り除くのではなく苦悩はどこからくるのかを思索した「縁起の観察」を通して、「私が私でありたい」と自己を渇き求める「渇愛」の心による苦悩を確かめた。第9回では、何を自己として渇き求めているのかということを「無我」の教説を通して確かめた。第10回では、自己とは何かと求める心を「さみしさ」という点から見直し、同じ課題を乗り越えようとする開かれた人間関係を「僧伽」を通して確かめた。第11回では、寄り添うということをさまたげる心、自他を傷つける心が我われの中にあることを、「分別」ということばを通して確かめた。

 

ほんとうの希望とは何か

これまで学んできたことを踏まえ、第12回では、「ETV特集『生き抜くという旗印~詩人・岩崎航の日々~』」という番組を視聴し、筋ジストロフィーの岩崎航氏の生き方に学んだ。

岩崎航氏は三歳で筋ジストロフィーを発症。徐々に症状が進行していく中、17歳の時、自殺を考えたという。番組内で次のように語られる。

孤立感があったんだと思うんです。疎外感と言うんですかね。他の同級生の友達とか、テレビで一般的に映っているような、普通の私の同世代の人たちの姿をいろんなところで見たり知ったりしていくと、やっぱり自分と比べてしまうんですね。表面的なことで比べてしまう。どこか社会から取り残されているような感じですよね。孤絶感というか。どう人と関わったらいいか、わからなくなってきたんですね。人と関わるのが怖くなっていく。このままこの自分のままで生きてても、未来がないというか、将来がない、そういう悲観的な気持ちにすっかり覆われていたので。(「ETV特集『生き抜くという旗印~詩人・岩崎航の日々~』」2016年4月30日放送)

「社会から取り残されている」「この自分のままで生きていても、未来がない、将来がない」このように語られ、自ら死のうと決意したという。未来がないという絶望、そして社会に居場所がないという疎外の中で、生きていくことの意味を失うという人生の根本問題に直面される。これまでの授業で、ALSの患者の苦悩や、安楽死を選んだ女性の苦悩、認知症患者の苦悩に学ばせていただいたが、その様々な方々の老病死の苦悩と響き合う問題であり、それは、独りぼっちで死んでいく不安、孤独ということを抱えた人間の問題でもある。これほど呼応した問題があるにもかかわらず、日常の中にも医療現場の中でも、その問題にともに向き合う場が乏しく、どう向き合えばよいのかと立ち止まって心を致す機会がない。

それでは、岩崎航氏はこの問題にどのように向き合ったのだろうか。次のように語られる。

ですが、死のうと思ったときに湧き上がってきた気持ちというのは、このまま自分が死んでしまったら、自分はなんのために生きてきたんだろうという問いでした。そうしたらすごい、心の奥底から、このままでは死にたくないという気持ちが湧いてきたんです。

本当になんて言ったらいいかわからないんですけど、命の奥底、存在の奥底から湧き上がってくる、怒りというと語弊があるかもしれないけれど、そういう突き上げるものが、このままで死んでたまるかというような気持ちがふっと湧いてきたんです。(「自殺」を「生き抜く」。末井昭×岩崎航, https://synodos.jp)

岩崎氏は絶望の中にあって生きるということを選んだ。「“死にたい”という衝動的な気持ち以上に、もっと奥には生きたいという気持ちが強烈にあった」「存在の奥底から湧き上がってくる」という心とは一体何か。絶望の最中にあって、生きようとする意欲を支えた希望とは何か。

絶望の中にあって、生きようとする意欲が生まれるということは、考えてみれば不思議なことである。形作られたものである「諸行」を、我われは生きる意味だと信じるから喜びがあるということを第6回でみた。しかし何もかもを奪っていく老病死によって、「諸行」は喜びにならないというところに立たされる。世の中を見渡してみても、生きるに値すると信じられるものが何もない、まったく希望がない、未来がない、という絶望の中で、意欲が生まれるということはどういうことだろうか。

安楽死を選んだ女性も「私は私でありたい」と願い、ほんとうに生きる道はないのかという葛藤の中にいたのであった。葛藤し苦悩したのは、「私が私として生きたい」という意欲があったからこそである。しかしその意欲は生命の死という道を選んだ。それはほんとうに私が私としていのちを全うしていく道であったのか。我われにとって問うべきことは、生を選ぶか死を選ぶか、どちらがよいかという問いではなく、「何を意欲して生きることが、ほんとうにいのちを全うすることなのか」という問いではないだろうか。岩崎氏は上記のように「自分はなんのために生きてきたんだろうという問い」が起こったという。どういう「私」が、どういう「願い」をもって生き、死んでいけば満足できるのか。そのことが問題となっている。

 

ほんとうに欲しているもの

我われは何を本当に欲しているのかという問いは、すでに第6回で「出家」の課題を通して一度見ている。我われは、世の中の形作られたものである「諸行」を喜びであると信じて生きている。老病死によって、諸行が喜びであると信頼がおけなくなり、世の中にどこにも確かなものがないという疑いに投げ込まれる。それが「老病死を見て、諸行無常を知った」と言うことの内実だと確かめた。では疑いに投げ込まれたものが、どうして歩み出すことができるのか、という問いについて考察した。無常だと知ったとき、なおさら諸行を楽しもうすることもありえる。しかし釈尊は出家者に出会って「此れはこれ真なり」といって出家した。それは自分の欲求をみたすということとは違うほんとうのものに出会った喜びであった。

仮に私たちに真実などない、確かな喜びなどないとすれば、疑う必要もないし、苦しむ必要もない。しかし人間には苦しみがある。私が私でありたいのにそれが崩れるといって苦しみ、大切な人の命を失うことを苦しみ、戦争で人の命を奪ったことを苦しむ。苦悩するというかたちで、「ほんとうに人間であるとは何か」「ほんとうに人間としていのちを全うするとはどういうことか」という真実を求めるのである。岩崎氏が語った「自分は何のために生きてきたんだろうという問い」とはまさに、この真実を求める問いであり、「存在の奥底から湧き上がってくる」「生きることの芯」とは、苦しみの心の奥に、真実を求める心があることを表現した言葉といえる。

ここで、二つの問いを立てたい。一つは、その「真実を求める」とは、何を求める心なのであろうか。私たちがほんとうに欲することとは何か。もう一つは、その意欲はいったいどこから生まれるのだろうか。その心を支えるものはなにか。もしそれが本人の能力や努力によるものであれば、個人的な出来事である。それを成し遂げた英雄だけのものとなるだろう。しかしそうではない。特別な人のものではなく、一人の人間が「人間として」苦悩したからこそ出会った出会いがある。そのことは次回確かめたい。今回はまず前者の問いに留まりたい。

我われには真実を求める心があるといっても、どのように求めていいのかわからない。なぜなら、既に見たエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』によって、「私は自分を幸福にしてくれると予想され、しかもそれに到達した瞬間巧みに私をはぐらかすような目的を追っているのではなかろうか」「自分自身のものと思い込んでいる目標を追っていく」(エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』)と指摘されるように、私は、私がほんとうに欲しているものを知らないから、本当は自分自身でないものを「これこそ自分だ」と思い込んで追っていく。そのことを「渇愛」「無我」ということばで、第8,9回で確かめた。児玉曉洋先生はこのように言う。

「自由でない」というのに二つの意味があります。一つは束縛を感ずる。いろいろな生活の上で自分が拘束されているような感じがする。別の言葉でいうと、「ああなったらいいが、こうなったらいいが」というふうに、いまの自分に本当に生き切れないのです。どこか自分の心がもう一つからっと晴れない、暗い、重くるしいのです。昔、『格子なき牢獄』という映画がありましたが、牢獄とまでは言いませんが、もう一つ広々とした世界がないということです。もう一つは、自分は何が一番したいか、——この自分の人生においてたった一つ為し遂げたいという生活意志がはっきりしないということです。「そのためにこそ生きているんだ」という内発的意志がはっきりしないのですね。「自由」というのはただ束縛を感じないというだけでなくて、本当にしたいことがはっきりして、毎日の生活がその本当にしたいことを内から一歩一歩実現していくというような意味を持っているということです。ところが「無明」による我々の生活は、いつも気がねし、いつも計算する。「こうしたらどうなるだろうか」、「ああなったらどうなるのだろうか」というような形で生きている。これがつまり「自在を得ず」ということですね。(児玉曉洋「”いのち”を喚ぶ声」『児玉曉洋選集第1巻』p.68-71)

我われは何を本当に欲しているのかを知らないが為に不自由であるという。このことは、第6回において、私が「私である」と信じてきたものをすべて奪い去っていくような老病死の事態において、信じてきた「私」が崩れ、「裸の人間」となったとき、人は何を願うのかという問いを出したが、その問い対してどう応えてよいかわからない、ということが我われにはある。

このことについて、次にミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を通して確かめてみたい。

 

汝の欲することをなせ

主人公の少年バスチアンは、まわりから自分の容姿をからかわれたりして、いじめられている少年だった。周囲の友達から逃げ込むように一冊の本にのめり込んでいく。そしていつの間にかその物語の主人公になる。物語の中で「汝の欲することをなせ」と書かれた何でも思いどおりになる首飾りをもらう。

大事なのは、ここに書かれているのが、心の向おもむくままに何をしてもよいという許し、いや、そうせよ という強いすすめをさえ意味しているということだった。(『はてしない物語(下)』p. 23)

このように、心のおもむくままにせよというすすめどおりに、願いをかなえていく。「でぶっちょでエックス脚だから、美しくなりたい」と思いその願いをかなえる。その願いをかなえると今度は、「美しいだけではだめだ!バスチアンは強くなりたかった」 といいその願いをかなえる。次には「粘り強く、スパルタ式に鍛えられてはじめて、美しさも強さも価値があるのだ」「自分の粘り強さ、不屈の強さを誇らしげに思い、満足した。すると、早くも次の欲望が頭をもたげた」「勇気のある人間になりたい」と順々に願いをかなえていく。しかしバスチアンに疑問が生じる。

「入口になる扉は、どうやって見つけるんだい?」
「見つけたいという望みを持つことです。」
バスチアンは長い間考えていたが、やがていった。
「変だなあ。望もうと思っても、簡単には望めるものじゃないね。望みって、どこから起こってくるんだろう?望みって、いったい何なんだろう?」

このように望みがどこから起こってくるのかという疑問をもつ。さらにこのように尋ねる。

「これはどういう意味だろう。『汝の欲することをなせ』というのは、ぼくがしたいことはなんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」
グラオーグラマーンの顔が急に、はっとするほど真剣になり、目がらんらんと燃えはじめた。
「ちがいます。」あの、深い、遠雷のような声がいった。「それは、あなたさまが真に欲することをすべきだということです。あなたさまの真の意志を持てということです。これ以上にむずかしいことはありません。」
「ぼくの真の意志だって?」バスチアンは心にとまったこのことばをくりかえした。「それはいったい何なんだ?」
「それはあなたさまがご存じない、あなたさま自身の深い秘密です。」
「どうしたら、それがぼくにわかるんだい?」
「いくつもの望みの道をたどってゆかれることです。一つ一つ、最後まで。それがあなたさまをご自分の真に欲すること、真の意志へと導いてくれるでしょう。」
「それならそれほどむずかしいとも思えないけど。」
バスチアンは言った。
「いや、これはあらゆる道の中で、一番危険な道なのです。」ライオンはいった。
「どうしてだい?」バスチアンは尋ねた。「ぼくは怖れないぞ。」
「怖れるとか怖れないとかではない。」グラオーグラマーンは声を荒げていった。「この道をゆくには、この上ない誠実さと細心の注意がなければならないのです。この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのですから。
「それは、ぼくたちのもつ望みがいつもよい望みとはかぎらないからかい?」
ライオンは尻尾でそばの砂をぴしゃりと打った。そして耳を伏せ鼻にしわを寄せた。目は火を噴いていた。つづいてグラオーグラマーンがまたあの大地をゆるがす声を発したとき、バスチアンは思わず首をすくめた。
「望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」(p.67−69)

このように大きな問題にぶつかる。目的の場所にいくのに扉を通っていかなければならないが、どうやって開ければよいかわからない。どの扉をくぐれば目的地にたどり着けるのか。つまり、望みの道というのは様々に展開できる。病をもつ者は病がないことを望み、家がない者は家を持つことを望む。バスチアンが「ぼくがしたいことはなんでもしていいっていうことなんだろう、ね?」と問うように、我われは「自分がしたいことをみたす」という自分の欲求を充たすことを以外の「望み」がわからない。それに対してグラオーグラマーンは、「ちがいます」と答える。そして望みの道をたどっていくこということは「決定的に迷ってしまいやすい道」であるという。

第8回では、「渇愛」の心によって苦悩する我われの在り方を確かめた。苦悩の奥には「私が私でありたい」と自己を渇き求める心がある。縁起の観察では、苦悩の原因を「渇愛」の心にあるとまず押さえる。一方、自己を渇き求めることそのものが問題なのではないことを、第9回で確かめた。宮下晴輝先生はこのように述べる。

願い求めることは、人として精一杯に生きることである。
しかしまたその時に不安のようなむなしさのような気持ちがよぎることがあるかもしれない。これほどにしても報われないのではないか、ひとり合点で心が通じない、無意味な努力をしているのではないか、と疑い出すこともある。
願い求めることそのことに問題があるのではない。どんな心で願い求めるのかが問われているのだろう。私たちの心には、実は、見えていないものがある。それは、人が本当に求めているもの、そして自分が本当に求めているものである。
それが見えていないにもかかわらず、願い求めて努力しているのだから、時に、とても深く傷つけ合って悲しみのなかに投げ込まれてしまう。
だから私たちは闇をかかえて願い求めているのだといわねばならない。そんな闇があることが「無明(むみょう)」なのであり、そんな心で願い求めることが「渇愛」なのだと、仏陀釈尊は説いている。(宮下晴輝「シリーズ—仏教のことば(45)「本願」2016年5月『崇信』」)

「私が私でありたい」と願うことは人間の根本である。しかし我われはほんとうに欲しているものを知らずに求めるために、「決定的に迷ってしまいやすい」のである。どんな「私」が自己を求めるかということが問題である。

さて、バスチアンはさらに求め、「これ以上一人ぼっちでいたくないという望みだった」「自分の数々の能力をほかの人に見てもらい、感嘆され、名声をあげたくなったのだ」というように、名声、人に誉められ、人から認められるということを求め、それを叶える。

さらには「賢くなりたい」「賢いということは、よろこびも悩みも、不安も同情も、名誉欲も侮辱も、すべてを超越していることだ。」このように賢者であることを望み、それを叶える。賢者であるということはさまざまな苦悩を超越しているということを表すが、そのことについて、児玉曉洋先生はこのように述べる。

賢いということは、悩みもない、不安も、同情も、名誉欲も、侮辱も、すべてを超越していると。これが、仏教でいう二乗といわれるものなのです。これは凡夫であることよりもつまらぬと。つまり自分一人が最高の境地に達したという、そういうのは一番こまった者だといわれています。煩悩をもっているならまだ救われるけれども、覚った者はもういっぺん覚るわけにはいかない。先ほどの話の、満たされたものは再び望まないというのと同じです。覚りを開いた者はもう絶対に救われないと書いてあります。おもしろいですね、自分免許の覚りを開いた者ほど質の悪い者はない。それは二乗といわれ、菩薩の死といわれます。 (児玉曉洋「汝の欲することをなせ」『児玉曉洋選集第四巻』p.177-178)

「自分一人が最高の境地に達した」「自分免許の覚りを開いた者ほど質の悪い者はない」と指摘されるように、自分はすべてをわかっていると「わかってしまった立場」に一度立ってしまったとき、そのことを「ほんとうにそうなのか」と問い直すことは困難となる。そのことが仏道を歩む者にとっての脅威であり、そのことを二乗の立場との違いを明確にして課題としたのが「菩薩」であるということは、すでに第11回で確かめたことである。このことは繰り返し問題にされ、例えば菩薩の修習階梯である菩薩の十地の中で、その七地における「七地沈空の難」と呼ばれる問題も同質の問題であり、空について「わかった立場」に立ち、それ以上求めなくなり座り込んでしまうという「菩薩の死」を問題にしているといえる。

さて、そこで最高の望みに達したと思ったバスチアンに魔術師がささやく。「すべての生きものがバスチアンの意志からのみ生まれつくられる世界。そこにバスチアンが超然と、神秘にみちて君臨し、すべてのものの運命を一手ににぎって永遠に動かし続ける」それが真の自由だと誘惑する。このようにすべてを支配する王、超越者、神であることを望み、それも叶えられる。このように七つの望みが達せられたが、満ち足りることがないのである。

最後にバスチアンは、友人に導かれて生命の水を飲む。

飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまったとき、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった。あらゆるあり方から一つを選ぶことができたとしても、バスチアンは、もうほかのものになりたいとは思わなかっただろう。今こそ、バスチアンにはわかった。世の中には悦びの形は何千何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができ出来るという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだ。(p. 389−390)

美しくなりたい、強くなりたい、粘り強く忍耐強くなりたい、勇気のある人間になりたい、 名声を得たい、賢者になりたい、神になりたい、それらが実現してもまだ心がみたされずに渇いていた。それが生命の水を飲むことによって「生きる悦び」と「自分自身であることの悦び」に満たされたという。そしてそれは新たな誕生という意味をもっていると表現される。本当の問題は、自分自身を生きることができるということに自由があり、充実がある、つまり不幸なときも幸福なときも、苦しいときも楽しいときも、病気のときも健康なときも喜びがある、ということは、これまで求めてきた七つの欲をみたす喜びとは異なる。不幸なときも幸福なときも自分であり、そのことを喜ぶという。すなわち、自分が自分へと帰ったのであり、「私が欲求する自分でありたい」から「あるがままの自分でありたい」へと転換したのである。

 

闇を闇として

岩崎氏が、「生きることの芯」「命の奥底、存在の奥底から湧き上がってくる」ものと表現したことは、このようなあるがままの自分自身を生きたいと願う心といえるのではないか。岩崎氏はこのようにいう。

やっぱり最後には自分、病をもちながら生きる、病気を含めての自分なんだ。そのままの自分で生きればいい、人生を生きればいいんだって心から思うことができたんです。

そうすると、人と比べて嘆いてばかりいることがなくなっていったんです。ようやく病を含めての自分として、生きるという気持ちが固まった時に、はじめて私は、自分の人生を生き始めたんだと思うんですね。

「人と比べて嘆いてばかりいる」のではなく、「病気を含めての自分」を生きる、そのとき自分の人生を生き始めたという。生命の水を飲んで、あるがままの自分でありたいという「新たな誕生」を得たというバスチアンの在り方と通じる。それは苦悩がなくなるということではない。岩崎氏もそれからも苦しんだり悩んだりしていることを率直に語る。かといって、苦悩が苦悩のままで何もかわらないわけでもない。そのことをよく表しているのが番組でも取り上げられていた、この五行詩である。

青春時代と呼ぶには
あまりに
重すぎるけど
漆黒とは
光を映す色のことだと
(岩崎航『点滴ポール 生き抜くという旗印』)

自身の在り方を漆黒と表現する。そして普通であれば漆黒、闇を光にしたいというところを、闇は闇のままであるけれども、それは光を映す色であるという。苦悩の意味を実現していく歩みである。

したがって、ありのままの自分を生きる、ということは「そのままでよい」と現実を諦めることでもない。加来雄之先生はこのように述べる。

 なぜ「そのまま」で終わってはいけないのか。その理由は、これまで私たちは、これまでも「そのまま」であったし、そのなかで私たちは喘いできたからである。「そのままでよい」が喘ぐことへのアキラメという現実の肯定になったり、喘いできたみずからの歴史に目を背けるという現実からの逃避に終わってはならないからである。私たちは喘いできた現実にきちんと向き合い、はっきりとその正体を知ることによって、「そのまま」は「そのまま」であることを変えることなく、次の「ありのまま」の私という課題へと移っていくのである。(中略)
「そのままの君でよい」とは、「ありのまま」の自分が見えるときにはじめて実現するのである。なぜなら私たちの事実は、私たちの思いのままにではなく「ありのまま」という私たちの身の事実にあり、そこだけが私たちの立ち上がる原点であり、歩み始める出発点だからである。どんなときでも、どんな場所でも、「そのまま」から出発できるのは「ありのまま」という事実を生きていると目覚めることによってである。
でもどうして「ありのまま」にならなくてはならないか。どうなることが「ありのまま」ということなのか。どのようにして「ありのまま」になればよいのかがわからない。
「ありのまま」とは思いをはなれた事実のことである。「ありのまま」とはとらわれない曇りのない清浄な眼でしか見えない事実である。「ありのまま」とは現実が現実として見えることにおいてのみ成り立つ。(『彰見寺だより』)

私たちは「そのまま」に生きるといっても、そのなかで苦しみ、傷つけ合っている。「そのまま」と「ありのまま」の違いがわからない。「ありのまま」とは自分の思いを離れた事実であると指摘される。思いを離れた身の事実というところに立ち上がる原点があると述べられる。

自分の思いの中で迷っているという意味で闇の中にいるが、そもそも我われは自身の在り方を闇であるとも思っていない。したがって、「そのまま」と「ありのまま」の違いがわからない。どちらも思いの中でしか見えないからである。しかし確かめていけばどこまでも深い闇がある。それをどこまでも深く知らせる智慧がなければ、深い闇であることもわからない。安田理深先生はこのように述べる。

人間の自信は人間がのべる範囲のものである。自力無効とあやまりはてての自覚だけが、仏の権威をもって話せるのである。人間の体験や確信は、高が知れている。底がある。深信、二種深信に触れて初めて、我らには底があると知らされる。そして仏の無底の本願に触れるのである。そしてまた、衆生が、仏と同じ深さをもつことを知らされるのである。仏の本願が無涯底であるように、衆生の迷いの深さも底がない。(『願生偈』聴記 第三講 『安田理深選集第九巻』p.46)

このように底があると知らされることは、同時に底のない迷いの深さを知らされることでもあり、また同時にそれが本願の深さでもあるという。すなわち衆生の迷いの深さは、仏の本願の深さをそのまま映しているという。「漆黒とは   光を映す色のことだと」という岩崎氏の言葉はそのことと関わるといえる。つまり、どこまでも「迷いの自分のままに生きる」ということは、「それをあきらめる」という生き方もあるが、そうではないような、「それをあきらかにする」という生き方、迷いの自分を、その在り方を照らす智慧によって、深く知っていく歩みがあるということである。そこに「あるがまま」の事実に立ち上がるということ鍵があるといえる。

 

二つの「我」

岩崎氏が人と比べて歎いてばかりいる自分から、病を含めての自分を歩み出したということ。このことは、『はてしない物語』において、バスチアンが生命の水を飲んで、あるがままの自分自身を愛することができるという新たな誕生を得たということと通ずる。この歩みに教えられることは、「私が私でありたい」と願う心には、私を傷つける心と私を愛する心があるということである。

このことについて、信國淳先生は『いのちのは誰のものか』の中で、白鳥の物語を通して指摘する。少年のお釈迦様が、従弟の提婆と一緒に森に遊びに行った。そこで提婆は森の上を飛んでいる白鳥を見つけ、弓で射落とした。二人の少年は獲物を手に入れようと駆け出した。そしてお釈迦様の方が早く見つけ、傷つき喘いでいる白鳥を抱き上げて助けようとする。そこへ提婆が来て、射落とした自分のものだから返せと迫る。お釈迦さまは、先に見つけたのだから自分のものだと譲らない。そのとき、一人の年老いた賢者が言った。「すべてのいのちは、それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない」。

「白鳥」というのは私のいのちであり、提婆と釈迦とは、我われにある二つの我の在り方を表しているという。「提婆の我」とは、白鳥を殺そうとする私、つまり自分の価値を勝手に決めて、価値がないと殺しにかかる私である。また「釈迦の我」というのは、白鳥をたすけようとする私、どんな私も愛そうとする私である。

ここで提婆の我を釈迦の我にしなければならない、と安易にいわない。まず我われはみな「提婆でないものはない」と指摘する。

我われ人間は、実は提婆でないものはないのであって、誰もみな提婆として、自ら気づくと気づかぬとにかかわらず、自他のいのちを深く傷つけていると言わなければならぬものなのです。そして、そのためそこに、私どもには苦悩というものが起こっており、またそのためそこに必然的に、苦悩するいのちの自然な要請により、愛する釈迦というものが、私どもの内にどうしても現れなければならぬ。新編信國淳選集『いのちは誰のものか』(p.14)

我われ人間は、実は提婆でないものはないのであって、だからこそそこに苦悩が起こると話され、そしてそのために必然的に、「苦悩するいのちの自然な要請」により、いのちを愛する釈迦というものが、私どもの内にどうしても現れなければならぬと述べられる。

ではいのちを無条件に愛するということはいかなることか。そのことは、いかに私が無条件に愛するという在り方でないか知らされる、という形で示される。

私が受け持った患者に、脳動静脈奇形で脳の手術後寝たきりになった方がおられる。呼びかけても反応ははっきりしない。その患者のお母様は手術を止めればよかったと後悔する。私自身は、医者として何もすることができず、お母様にどんな言葉をかけたらよいのかもわからなかった。そのため、その部屋に行く足取りはいつも重かった。しかし、そのお二人のことを見る中で、私の考えがかわっていった。お母様は呼吸の仕方や、表情の一つ一つを大事に見られる。体調がよいときには車椅子に乗って近所に出かける。そこに日常があった。そしてお母様は、私はこの子に生かされているといわれた。

その患者とお母様の関係を見て、私はいのちに勝手な価値をつけていたことを恥じた。私は、彼をただ「脳障害の患者」としか見ず、治療しないといけない「気の毒な患者」としか見ていなかった。何か特別な人としか見ず、そして目の前の彼とは別の特別な姿を求め、今まさに豊かな日常を生きる姿を見ていなかった。お母様の持っている、今を生きる存在をありのままに受け止める心によって、私の分別が知らされたのであった。

我われは、老病死によって崩れる基準でいのちを評価する「分別」によって、いのちを「よい」か「わるい」かで見る世界に生き、人と比べて勝っているか負けているかといのちを量り、いのちを条件付きで見る。しかしだからこそ、そうではない見方でいのちを見る世界が願われている。いのちを無条件に愛するような、人と比べる必要のない、量ることのできないいのち(無量寿)をみる心に満ちた、「よい」も「わるい」もない世界に生まれることが願われている。

仏教の思想の展開の中において、「私が私でありたい」という願いは、自己の意味を限定していくような渇愛の心と受け止められ、まずは否定的に受け止められる。しかし「私が私でありたい」という願いのなかに、上記のような、自己の意味を開いていくような「清浄意欲」を「願」として見出していく。そのことは例えば『摂大乗論釈』に表されている。

論じて曰わく、波尼他那波羅蜜、此の度は能く種々の善願を引摂し、未来世に於て六度の生縁を感ずるが故に。

釈して曰わく、此の願は、現在世に於ては諸の善行に依りて、能く種々の善願を引摂す。此の願は未来世に於ては能く随って、六度の生縁を感ず。謂ゆる好道器及び外の資糧なる善知識、正聞等なり。是を善願の因果の事と名づく。清浄の意欲を以て其の体と為す。般若に依るが故に清浄を得、大悲に依るが故に意欲有り。もし分別を離るれば此の事成ぜざるが故に、是れ無分別後智の摂なり。(T1595.31.228c3-10)

「無明」という「知」の在り方によって「渇愛」という「欲」が生じるように、「般若(智慧)」という「知」の在り方によって「願」という「清浄意欲」を得る。単に「知」や「欲」を否定するのではなく、意味内容が変わるのである。我われがどんな「知」や「欲」を依り所として生きるのかという、依り所の転換である。仏教の思索の歴史の中で、「願」ということはまずは「渇愛」と見なされ、苦悩の原因と受け止められる。渇愛を滅するということの意味を確かめていくとき、「欲」そのものを否定するということは、人間として生きることの根幹に関わることである。それは第9回で学んだように、「無我」の教説の意味する課題は、どこにでも我をみとめる「渇愛」の心を確かめたうえで、しかしその主題は「我がない」ということではなく、「ほんとうの自己」を求めよというところにある、ということと同様である。「渇愛」を滅するといっても、「欲」の在り方が変わるということである。「思いどおりしたい」という「渇愛」が行きづまった底に、ほんとうの自己を生きることを支える「清浄意欲」を見出すのである。バスチアンが生命を水を飲んで「あるがままの自分でありたい」と願うことができたということや、岩崎さんが生きることを選んだという選びは、このことと関わることであるといえる。

では、バスチアンが生命の水を飲んだとは、我われの人生においてどういうことを意味するのか。岩崎氏が自分自身を生きるという歩みはどうして始めることができたのか。それは、特別な人だからではなく、一人の人間が「人間として」苦悩したからこそ出会った「出会い」があった。自分の外に、それを支える「出会い」があった。生きることが新たに始まる「出会い」とは何か。このことを次回確かめたい。