延命治療(2)

大脳皮質基底核症候群という神経難病の方が入院された。病状は進行しており、寝たきりである。そんな重度の障害がある場合、いつ急変するかわからないことから、急変時に延命治療をするかどうか、あらかじめ意思を確かめることが多い。そのことを確認した医師によれば、この方はキリスト教の信仰があり、病によって命を終えることをすでに受け容れているから、延命治療の必要はないと言われているとのことであった。

延命治療をしない理由として、「苦痛が長く続いてほしくない」「そうして生きても意味がない」ということがよく聞かれる。そういう声を聞くたびに、釈然としないものが残っていた。しかしこの方は、「延命治療をしてほしくない」というのではなく「必要がない」という。このまま人生を全うしていけるから延命治療の必要はない、ということであろうか。思い返せば、このような態度を取られた方はあまりなかったかもしれない。信仰があるから、このままいのちを終えても人生を全うしたといえる。そういう信仰とは何だろうか。

同時にもうひとつの疑問が起こった。逆に、信仰があるから延命治療をして生きたい、ということもまたあり得るのではないか。信仰によって、どんなに苦しくても生きる意味を失うことなく歩むことができる、だから延命して生きていきたいということもまた言えるのではないか。

別の患者さんは、九十歳を超えたパーキンソン病の方で、寝たきりで意思疎通も困難であった。しかし延命治療を徹底的に施してほしいというご家族の希望で、人工呼吸器を使用し療養中である。ご家族は、どれほど末期であったとしても、死ということはありえない、とにかく生きてほしいと望む。その心情はよくわかることであるし、どんないのちもそこに意味があり、輝きがあるといいたい。しかし、死を見ないでひたすら生命の長さだけを求め、人間としてどう生きることがいのちを全うしていくことなのかを問わずに、いのちを語ることができるのか。この方は、意思疎通はできないが、ときおり目を開け、涙を流されることがある。その涙はどういう意味なのだろうか。死を見ないで生きて欲しいとだけ願う心は、その涙に寄り添うことができるのだろうか。

延命治療をしようとしまいと、独りで死んでいかなければならないことにはかわりがない。独りぼっちで死んでいくということを乗り越えて、独りであることがいのちを束縛するのではなく、独りであっても自由に生き、満足して死んでいけるのかが問題である。延命治療をするといっても、しないといっても、その問題を共有しなければ何か空しさが残る。医療現場で釈然としないものが残るのはそこに理由があるのではないか。児玉曉洋先生はこのように述べられる。

つまり独りぼっちで死んでいくということは、人間の避けがたい運命、定めである。それを乗り超えようなんて思った人は誰もいない。ところがゴータマ・シッダールタは、それを自分の問題にした。「老・病・死を見て世の非常を悟る」と。ゴータマは、その老病死を必然的にともなう生、独りぼっちで死んでいくいのちでなく、一切衆生と共に永遠に生きるいのちをついに見出した。それが、仏陀がこの世に誕生したことの意味であり、無量寿、無量光である大悲の阿弥陀仏が、この人間の世界に人間となって現われ出たということなのです。(「一人・歴史・社会」『児玉曉洋選集第四巻』一三五頁)

孤独を「自分の問題」とし、独りぼっちで死んでいくいのちでなく、「一切衆生と共に永遠に生きるいのち」を仏陀は見出した。延命するかどうか、どこで死ぬか、などという問題はものともせず、人間としての問題を乗り越えた、一人の人間像がすでに示されている。しかし我われは、同じ問題を抱えているにもかかわらず、その問題を脇に置いて、生きるのが嫌だと言って延命を拒否し、死ぬのが嫌だと言って延命を求め、自我の関心の中で右往左往している。ともに生きるいのちを求めながら、そもそも問題を共有できないというところにいるのではないか。

[『崇信』二〇二一年七月号(第六〇七号)「病と生きる(68)」に掲載]