恵み

日ごろ神経難病の診察をしていると、六年前、本誌に記したALSの患者さんの言葉を、折に触れ思い出す。「石になっていくみたいでこわい」と(二〇一五年十二月号、病と生きる(4)自由境の在処)。この言葉を、ただ身体的な問題としてだけではなく、私が私として生きていくことができない苦悩、人間としていのちを全うしていけない苦悩だと受け止めたとき、それはALSという特別な病の問題ではなく、私自身の問題となる。

私はこの方のことを、入院したわずかな間のことしか知らない。しかしもう少しだけ続きのお話がある。この男性には娘さんがおられた。年頃のせいか、何かあったのか、詳しいことはわからないが、娘さんとの会話が一切なくなり、避けられるようになったという。ところが病気になって、徐々に娘さんとの会話が戻った。さらに自分の介護をしてくれるようにまでなった。「病にかかっていなかったら、娘と向き合えないままだったかもしれません。娘のやさしさも知らずに過ごしていたかもしれない。」とおっしゃったことを覚えている。よく、病を受け容れるとか、病にも意味がある、という言い方をされることがあるが、それは当事者にとって時に酷な言葉である。しかし、人間として生まれたことを喜べなくなるような病の苦悩の中で、病にならなければ見えなかった大事なことに出会ったと語られたことは、私にとって励ましであった。

苦悩にも意味がある、と簡単には言えない。しかし、苦悩をただ無意味な無くすべきものと決定してしまわず、そこに少し心を留める勇気を、仏教の学びからいただくように思う。宮下晴輝先生の『はじめての仏教学』には次のように述べられている。

「苦しみとは、何も喜びがない、何も信じられないと苦しむことでした。それなら、私たちに真実などないのだ、消え去らない確かな喜びなどないのだ、と断定したらどうでしょうか。そうすれば、疑いは必要なくなります。なぜなら真実はないのですから。確かな喜びなどないのですから、信じられないと苦しむ必要もなくなります。もちろんこれは、仮にそのように断定したならばということです。現実にはそのようにできません。まさしく現に疑いと苦しみがあります。」(宮下晴輝『はじめての仏教学』 六九〜七〇頁、傍点は筆者)

確かな喜びなどどこにもない、すべて無意味であると決めてしまったのなら苦しむ必要もない。しかしここに、現に苦悩する人間が確かにあり、そしてその苦悩が出会わせるものがあるのである。

「ということは、私たちはまさしく現に真実を求めているから疑いがあり、死によっても消え去ることのない喜びを求めているから苦しみがあるのだと言えるでしょう。なぜ苦しむのか。それは真実を求めているからです。苦しみそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです。(同上)

「苦しむという形で、私たちは、真実を求めている」この言葉に、非常に大事な「出発点」をいただく。苦悩の中に真実を求める心があるからこそ、苦悩は、ただ苦悩に留まらず、私の思いを超えた敬うべきものに出会う機縁になる。人間であろうとするから苦悩するのである。

それは、現状をただ肯定するということとは全く異なることだろう。それでは現状を超えたものに出会うことがない。自分の力で苦悩を「受け容れる」というのでもない。それは自分の思いを捨てたようであるが、そこには努力によって受け容れようとする思いが残る。思いは思いを超えたものを求める心を覆い隠す。

外に敬うべきものに出会ってはじめて、求めていたのだ、と内にその心が見出される。しかしまた内に求める心がなければ外に出会うことはできない。外に仏陀に出会うことと、内に自己に出会うことは同時なのではないか。そうして出会う自己は、そこに座り込む自己ではなく、そこに立ち上がる自己なのではないか。私にとって苦悩の闇が、ただ闇のままであるのか、ほんとうに自己を明らかにする恵みとなるのか。それが問題である。

[『崇信』二〇ニニ年一月号(第六一三号)「病と生きる(74)」に掲載]