聖道・浄土のかわりめ

わざわざ語る人が少ないのであまり知られていないかもしれないが、実は医師には書類仕事が結構多い。特に脳神経内科医は神経難病や認知症を診るので、難病認定のための書類の他、介護認定、訪問看護やリハビリの指示書など様々なものを扱う。その仕事を”雑用”と考える医師も多いが、それらの書類がなければ、社会制度を利用して適切な医療や介護を受けられないのだから、当然大事な仕事である。

先日、介護認定の更新の書類を書いた。症状は進み、より介護が必要な状態となっており、以前よりも重い状態であることを記載していた。それにもかかわらず、なぜか介護度が軽く認定されてしまい、必要な介護が受けられないことになってしまった。一度決定された認定は覆らない。不服申し立てはできるが非常に時間がかかる。社会制度に対して、個人は無力である。

しかしこの場合、制度上は「区分変更申請」ができることになっており、不服申し立てをするよりは速やかに現状を打開できる可能性がある。ケアマネージャーさんの、患者さんが困っているのを何とかしたいという心と、制度についての知識によって、再申請されることとなった。他にも日常生活をどうするかという視点で様々な問題について考えておられる。患者さんの問題に真摯に向き合おうとする姿勢に頭が下がる。書類はどんどん増えていくが、医師はただ書くだけである。

しかし病は容赦がない。前述のかたは多系統萎縮症である。緩徐ではあるが進行性の疾患であり、介護の必要性は増していく。社会制度が追いつかない。また、たとえ充実した介護が受けられたとしても、「生きるのが苦しい」という声に応えられるわけではない。病と生きるということを誰も代わることはできない。

そのように、「おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」(『歎異抄』第四章、聖典六二八頁)ということは、現場で患者さんの問題に真摯に向き合っている人ほど、感じていることである。それに対して、例えば仏教者が外から眺めて、「あなたは、自分の思いの中で “よいこと”をしているつもりになっている。それは思い上がりである」と、実践していない人が、実践している人に対して、”聖道の慈悲”というレッテルを貼り、批判するのをみることがある。しかし、慈悲を実践するということがあって初めて、「聖道・浄土のかわりめ」ということが意味をもってくると、児玉曉洋先生は述べられる。

「聖道・浄土のかわりめあり」とは「違いめ」があるということですが、これは聖道の慈悲、これは浄土の慈悲と対照的に二つ並べて、一方はいいが片方はだめだということではどうしようもないと思うんですね。聖道であろうが、浄土であろうが、とにかく慈悲ということが自分の人生の主題となり、その慈悲を実践するということがまずあって、初めてこの「違いめ」ということが意味をもってくるのです。そして、その実践を通すときに、「かわりめ」という中に、もうひとつ転換という意味のあることが明らかになってきます。聖道の慈悲を徹底していけば、どうしても浄土の慈悲へ行かざるをえないという意味が、そこに含まれていると読んでいいと思います。(「歎異抄に聞くI」『児玉曉洋選集第八巻』三一九〜三二〇頁)

実践を徹底すればするほど、”よいこと”をしているつもりになって自己満足している自己の在り方が知らされる。問題意識を持って実践するからこそ、浄土の慈悲に触れたとき、そのことが知らされる。そこに「かわりめ」が意味をもってくるということだろう。仏に出会ってはじめて、私もそう生きたいと願うように、浄土の慈悲に触れてはじめて、ほんとうの慈悲、ほんとうの人間関係とは何か、と求める方向性が定まるのではないか。それは、ほんとうの人間関係を妨げているものが、自分の内側にあることに気づかされることでもあるだろう。ほんとうの人間関係を求めていながら、かえってそれを損ねるような実践になっていないか、と自身に問う声を聞かなければならない。

[『崇信』二〇二二年六月号(第六一八号)「病と生きる(79)」に掲載]