いのちの意味が開かれた場所

筋強直性ジストロフィーの方が入院されたときのことである。一時食事量が減り、呼吸状態も悪くなった。すぐに持ち直したが、今後栄養が取れなくなったとき胃瘻を造設するか、呼吸状態が悪くなったとき人工呼吸器を使用するか、などの選択がせまられる。そういう処置について、まだ状態がよいうちに前もって説明し、ご本人の意思によって今後の方針を決める。難病があるかどうかにかかわらず、将来にそなえて自分が受けたい医療をあらかじめ話し合っておくという、アドバンス(事前の)・ケア(治療)・プラニング(計画)(ACP)の機会を持つことが勧められている。

しかしこの方は、中枢神経障害が合併しており、意思表明が困難である。さらには夫とは別居中で、お子さんも疎遠である。日本医師会の『終末期医療 ACPから考える』には「患者さんの尊厳ある生き方を実現するためには、患者さんの意思が尊重された医療及びケアを提供することが重要です」とあるが、「患者さんの意思」とは何だろうか。まずそもそも本人の意思が捉えがたい、ということもある。しかし、意思表明がはっきりできたとして、家族がみな疎遠な中で、「胃瘻や人工呼吸器はしません」という意思表示があったとき、それは単純に「本人の意思」といえるだろうか。置かれた状況を問わずに意思を尊重するというだけで「尊厳ある生き方」につながるといえるのか。

たとえば、「難病で胃瘻や人工呼吸器をつけて生きるのは、徒に命を延ばすだけでつらいだけではないか」と考える人ばかりの病院と、「難病があっても胃瘻や人工呼吸器をつけて生きることができる、最期まで命を全うするあなたを敬い、大切に見守ります」という病院があったとする。どちらが難病の人が生きやすい環境だろうか。選択する意思は変わるのではないか。

家族という単位、病院という単位、さまざまな共同体のなかで、置かれる状況によって意思は変わる。生きたいといえるつながりもあれば、生きたいといいにくくなるつながりもある。それはその共同体において、「いのちの意味」をどのように見ているかによるのではないか。それを問わずに「本人の意思」だから尊重しますなどというのは、一見心に寄り添っているようで、本人に全ての責任を追わせる冷酷なことではないか。たとえ「本人の意思」であっても、その意思が「いのちの意味」を見失っていく方向であったとき、意思を尊重するという前に、置かれた共同体において共に、そう意思させているものを確かめる必要があるのではないか。

それは社会のレベルでもそうであろう。たとえば、「人に迷惑をかけてはいけない」という社会と、「人は迷惑をかけて、たすけられて生きていくものだ。私も迷惑をかけるから、あなたも迷惑をかけてよい」という社会とで、たすけが必要な身体障害をもったとき、どちらが生きやすい社会だろうか。児玉曉洋先生はこのように述べる。

そのようなことが、今日の状況の中でもつ意味、それは〝尊厳〟ということであり、現代人は尊いものを見失っているということです。人でも物でもそのものの尊さ、尊厳性、それを見失っている。それが生活の中に現われてこない。(中略)そして反対に尊厳性に対して、価値という、別な言葉でいうと有用性という、役立つもののほうに重点が掛かっている。そして、では何のために役立つのかということが吟味され、確認されないまま、いわゆる多様な価値観、思い思いにみながかってに、ただこの有用性というものを求めて必死になって動き回っている。(『児玉曉洋選集第十巻』一七九頁)

ACPが重要であるということは、一定の条件においては理解できるが、社会が尊厳性を見失ったまま、本人の意思だけが重要視されるのは、何か冷たさを感じるのである。ACPの前に、いのちの意味を限定していく場所にいるのか、いのちの意味が開かれた場所にいるのかを問い質さないといけないのではないか。ほんとうの尊厳とは、いのちの意味が無限に開かれていることではないだろうか。

[『崇信』二〇二二年七月号(第六一九号)「病と生きる(80)」に掲載]