人生に喜びはあるか ―医療現場の問いと仏教の問い―(4)

人間であるが故に

ここまでALSの患者さんのことをご紹介させていただきましたけれども、我われ医療の現場にいる医療者、私自身も含めてどういうことが欠けていたのかということを、宮下先生を通して仏教を学んだときに教えていただいたと思うわけです。それで、資料を読ませていただきます。

信頼によって私たちの生活は成り立っているのです。信頼がなければ、この身一つそこによせることもできず、安らぐ場所を失ってしまいます。それほどに信頼ということが大事です。それにもかかわらず、これほど危ういものもないのです。
(宮下晴輝『はじめての仏教学』55頁』)

衆生(老病死する身体をもって生命を生きるもの)という視野で考えると、信頼がないと生きていけない生き方をしているのは人間だけです。人間とは、真偽を問いながら生活する衆生なのです。(同上57頁)

こういうふうに教えていただくわけです。「人間が人間として生きる」ということはどういうことか、私が人間として生きるとはどういうことか。「自己とは何ぞや」という問いは哲学者の問いであるかのように思うわけですけれども、哲学書とかを読んだことのない普通に生活をしてきた人が、そういう問いにぶつかるということが非常に大事なことなんだろうと思うわけです。そういう「人間として」という問いとして患者さんの声を聞いて初めて、ALSという特別な状況の特別な人にだけある問題ではない、自分自身の問題としてやっと聞こえてくるということがあるわけです。

ところが、どうしても特別な人の特別な問題と見てしまう。そういう問題を介護の問題に熱心に取り組んでいる方と話すと、「先生は哲学者ですね」とか言われる。哲学の問題というところに押し込めてしまう。一般のどんな人もの問題だというところになかなかいかない。

たとえば、認知症の患者さんのことについてもそうですね。患者さんが暴力をふるうということが起こったときに、それは認知症だから、認知症の症状だとしてしか見えてこないわけです。よくよく聞いていきますと、仕事一筋で生きてきた、仕事が生き甲斐の方だったわけですが、仕事を辞めてどうしたらよいかわからない。のんびりできるんだから、さあ趣味のゴルフでもやろうというときに、認知症になってそれも難しくなってきた。じゃあせめて孫の世話をと思う。しかし孫も成長してかえって煙たがられる。そんなふうに、自分にとっての生きがい、喜びと思ってきたものが崩れていく。そんな中で、家族はよかれと思って手伝ったりするわけですが、自分ができることまで奪われている感じがするわけです。なぜみんな自分のものを奪っていくのかという、怒りというより言葉にならない嘆き、悲痛な叫び、そういうものが暴力という形で現れてしまうわけです。そのように仏教を通して受けとめるのですけれども、医療の現場では、認知症の不穏な症状が出ている、薬で抑えなければという方向にいってしまう。そこには自己とは何か、確かな自分とは何かという、哲学者の問いではなく、一人の人間としての問いが現れていると思うのですが、そういうふうにはなっていかない。

あるいは、たとえばトイレに行って失敗する。だから家族が手伝う。家族からすれば悪気はないんですね。汚さないようにしたほうがいいだろうな、と思って手伝う。ところが、本人からすれば失敗することを責められている感じ、いつも間違いを責められているような、そんな疎外感があるわけです。今までは、家庭にも自分の役割があって、居場所があったんだけれども、いつもの場所だったはずなのに、そこに自分の居場所がない。確かな居場所だと思ってきたところも崩れていく。自分をそのままに受けとめてくれる場所がない、自分の存在をそのままに喜んでくれる人がいない。

そんなふうに、信じられる自己も他者もない。周りを見渡しても何もないという中に投げ出されるという不安があるわけです。それを医学的な面で非常に小さいところおしこめてしまっている。そういう、信頼が失われるという問題が、信仰の問題の根っこにあるということを教わったわけです。

自分の問題との関わり

仏教を学び初めて最初のころは、仏教を利用して患者さんの苦しみを軽くできるとか、病を抱えても生き生きと生きられるなどという、浅はかな考えがあったわけですが、あくまで自分の問題とは無関係で、私は私、大変な人がいるから助けないと、と問題を向こうがわにおいて関わっていた。けれども人間であるが故の苦悩を扱うのが仏教であると知ったときに、患者さんの問題どころか、自分自身の問題がわかっていなかったということにやっと気づかせていただいたのかなと思うわけです。

逆にいえば、自分自身の問題も、悩みがあったり、行き詰まりがあったり、生きていけないと思い詰めるようなことがあったわけですけれども、そういう問題も、誰にもわかってもらえない個人的な問題だと受けとめていて、非常に閉塞感があったわけです。

けれども、仏教の学びを通して、自分も自分をわかっていなかった、自分が行き詰まっている問題は人間だからなんだ、と。その問題に取り組んできた人がいる、そういう問題を仏教が扱っている、と知ったとき、自分より自分を知っている人がいる知る智慧があるということは、何とたのもしいことか、何としても学ばなければならないと思いました。

そして自分の行き詰まりと、患者さんの問題と、状況は全然違うけれども、根っこに同じ問題がある。だから、状況はちがうし、本人になりかわらないとわからないことはもちろんあるけれども、それが個人的な問題ということで終わらずに、ともに向き合うということが成り立つとするならば、人間の根っこにある問題というところであれば、何か響き合うものがあるのではないか。閉塞感の中に光がさしたような思いがありました。(続く)

[『崇信』二〇二二年八月号(第六二〇号)に掲載]