安田理深先生は「『唯識三十頌』聴記」で、このように述べられる。
有漏の諸法を蔵するとは、つまり私が経験をもつということ、それが阿頼耶識である。総じて生活ということを成り立たせる識である。私という言表が、それにおいて立てられている識を阿頼耶識という。私が経験するという場合に、経験が雑染であれば、経験によって私と成り、経験をもてばもつほど、ますます私であるということになる。(中略)無漏の場合は、私にとっては異質的なものであり、これは逆に私を否定するものを私がもつことになる。この経験の蓄積によって、主体の変革(転依)が行われる。真宗では回心である。(中略)依止の転回が転依である。おいてあるものが変わることではない、おいてある場所が変わるのである。 (『安田理深選集第二巻』一〇〇〜一〇一頁)
心そのものは変わらないが、依り所が変わるということだろうか。では私自身はどうなのかと問うたとき、医学しか学んでいなかったときを思えば、仏教の学びに出会って、自分の経験を確かめる場所ができたといえる。しかし同時に、はたして心の置き場所が変わったとまでいえるのかとも問われる。そのことについて、日々の患者さんの姿から教えられることがある。
私の外来に長らく通院されているかたがおられる。個人的なこともあるので詳しくは言えないが、大変つらい経験をされてきた。一時は睡眠薬を多量に服用し、何度も病院に運ばれることもあった。あるとき一つ約束をした。「死ぬときはまず私に言ってからにしてください」と。
誰しも状況が厳しいときほど、自分がいかにつらいか、ということを伝えることに必死になって、周りの声が聞けなくなるということがある。しかしこのかたは、その後もつらい経験を繰り返しされるのだが、そんなときも、いつも私の話に耳を傾けてくださった。そしていつしかこの『崇信』を毎月読んでくださるようになった。
では悩みがなくなったかといえば、そうではない。日々さまざまな出来事があり、ときに深く心が傷つき、そのことをお話しされる(他人には言いづらいことを話してくださること自体有り難いことである)。「おいてあるものが変わることではない」とはそういうことだろう。人生において厳しい状況は絶えず押し寄せ、苦悩がなくなることはない。けれどもお姿を拝見していると、その苦悩の中で、もがきながらもそこからかえって自己を確かめようとされる力を感じるようになった。それが「おいてある場所が変わる」ということではないか。もちろんときにはその力もなく沈み込まれることもある。しかし「もはや生きている意味はない」と人生の意味を自分で結論づけてしまうことなく、また帰ってきて問い続けられるのである。その姿に大変勇気をもらう。
安田先生は、つづいて『摂大乗論』「入所知相分」(玄奘訳)の
「多聞熏習の所依にして、阿頼耶識の所摂に非ず」(第三章第一節、章節番号は長尾雅人『摂大乗論 和訳と注解』による)
の一文を引用される。聞熏習の置き場所は阿頼耶識ではないという。阿頼耶識はあらゆる種子を蔵するのかと思いきや、そういわないようである。単に経験を蓄積して心を変えよというのではないということか。安田先生は「無漏の諸法というのは、阿頼耶識を超えている。阿頼耶識では包みきれぬ」ともいわれる。
そのことは『摂大乗論』「所知依分」に述べられていた。
「乃し諸仏の菩提を証得するに至るまで、此の聞熏習は、一種の所依の転ずる処に随在し、異熟識中に寄在して、彼と和合にして倶に転ず。猶、水と乳との如し。然れども阿頼耶識なるには非ず。是れ彼の対治の種子の性なるが故なり」(第一章第四六節)
という。あるいは聞熏習の種子は法身の種子であり
「能く一切の諸仏菩薩に逢事することに随順す」(同第四八節)
ともいう。私の経験では包みきれないような、無数の苦悩をくぐった智慧が、私の苦悩と対治しつつ私を導くということだろうか。
[『崇信』二〇二二年十一月号(第六二三号)「病と生きる(84)」に掲載]
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