祈り

[この記事は『崇信』二〇二二年十二月号(第六二四号)「病と生きる(85)」に掲載されたものです]

認知症で通院されていた患者さんが、新型コロナウイルスに感染し別の病院に入院された。奥様も感染したが、症状が重かったこのかただけが入院となった。入院後、経過は良好で、当院に転院となった。しかし、大変痛ましいことに、その間に奥様が自宅で亡くなっていたのであった。そしてさらに悲しいことには、ご家族からそのことが告げられていないと看護師から聞かされた。このままではいけないと思うが、しかるべきときにしかるべき人から伝えられるべきだろうから、私ができることもなかなかない。ただ、もしそこに「認知症だから伝えてもしかたがない」ということがあるのであれば、看過できない問題がある。

病院では多くの場合、認知症かどうかにかかわらず敬いをもって接していると思うが、少し気になることもある。何か幼い子どもに接するような態度を見かけるのである。それは親しみをもってということかもしれないが、何かその態度に、相手を低く見るような意識があるようで気になるのである。

それは、私を差し置いて他人を批判するということではない。私自身の恥ずかしいエピソードを告白しておく。ある患者さんに長谷川式認知症スケールという検査をしたときのことである。質問をして答えてもらうのだが、答えられず落ち込まれている様子であった。そこで安心してもらおうと思い、誰もが間違うことがあるというつもりで「私も間違えますよ」と言おうとした。ところが、口から出た言葉は「私でも間違えますよ」だった。一文字で大違いである。怒って出て行ってしまわれた。一文字の中に、自分と目の前の人とを比べ、優位に立っているとおごる愚かさが滲み出たのだった。

最初の話に戻るが、このかたは、日曜日には奥様と一緒に教会に礼拝に行くのだとよく言っておられた。枕元には聖書とP.T.フォーサイスの『祈りの精神』という書が置かれていた。見せていただくと、どちらにもびっしりと線が引かれ、細かい字で書き込みがなされていた。いろいろとお聞きしたかったが、耳も悪く、なかなか意思疎通が難しい。しかし何かこのかたの精神に触れたいと思い、この『祈りの精神』を手に入れて読んだ。キリスト教の素養はないので文脈を十分理解できていないだろうが、印象深かったところを少し引用しておきたい。最後の章に「苦痛に耐えている人々にひと言述べたい」といって、次のようにいう。

苦痛を耐えている人々にとっては、たとえ澄み切った目を持っていたとしても、その苦痛は神のみ旨(むね)であると判断することは容易なことではない。(中略)しかし苦痛に直面したならば、苦痛に正しく対処し、苦痛を把握し、それを神のために利用することが神の御心である。それは苦痛をして魂の糧とし、神の栄光に帰せしめることであり、苦痛の要因を清め、聖餐とすることであり、苦痛を祈りに変えてしまうことである。苦痛の中で人が除去を祈願したり、それを役に立てようと祈るときでさえも、神はその苦痛を祝したもうのである。どんなものであれ、われわれを神に駆り立て、神に近づけるものは、神の祝福をその中に宿すのである。(P.T.フォーサイス(斎藤剛毅訳)『祈りの精神』一七二〜一七三頁)

病院は病の苦痛を除こうとする場所であり、認知症は取り除かれるべき悪としてしか見られない。しかし、その苦痛の中に祈りがある、神の祝福があるという。自分の力ではどうにもならないと苦悩するところから、かえって深いものに出会っていく、神に近づけるものとなるということだろうか。何か仏教との共通の課題があるようにも思うが、キリスト教の文脈を確かめずに、安易に比較するようなことは避けたい。ただ、少なくともいえるのは、このかたがキリスト教に出会い、神の祝福の人生を歩まんとしてこられた事実は、認知症があるからといって消えるものではない。今どんな祈りの中におられるのか、ただただ知りたいと思う。