2022年受念寺報恩講講話「私たちにとって『信じる』とは何か」

[2022年11月8日受念寺報恩講の講話をまとめたものです]

(三帰依文)

皆さんこんにちは。今日は、お盆にひきつづきまして、報恩講でお話しをする機会をいただきました。お盆にお会いしたかたもおられますし、まただいぶ久しぶりにお目にかかる方もあるかと思います。しばらくお寺を離れておりましたが、少しずつ戻ってきております。

老人ホーム(受念寺に併設する老人ホーム「受念館」)のかたもおられますでしょうかね。老人ホームと言えば、僕は子どもの頃、ここの老人ホームの中に住んでいました。2階に部屋があったんですね。で、老人ホームの中で遊んでいました。とくに思い出深いのが、4階の一番奥の非常階段の手前のお部屋におられた、中野さんというかたにはよくかわいがっていただきました。よく部屋に遊びにいってました。通天閣の置物があって。僕が書いた手紙なんかもとってくださっていて。中野さんとの出会いということは僕にとってはたいへん大事なものを残してくださったと思います。私たちは、老いて死んでいくということは、なにかよくないこと、マイナスのことということでしか捉えられなくなってしまっていますが、中野さんの心に触れたということから、老いや死ということでは消えてしまわない心があるということを教えていただいたように思います。

老いとか死ということは、何か失われていることばかりのような感じがしますが、そうではないものがあるということですね。そういうことを、今日は「信じる」ということを通して確かめたいとおもいます。

前回のお盆では「供養」ということをテーマにしてお話しさせていただだきました。供養という言葉は「敬う、大事にする」という意味だと言うことから、私たちにとって「ほんとうに大事なもの」とは何だろうか、ということを確かめるようなお話しでした。そのときに、機会があれば「信じる」ということをもう少し詳しくお話しするといっていましたが、今回さっそく機会をいただいたので、きょうは「信じる」ということをテーマにお話ししたいと思います。これはほんとうは40分ぐらいでお話しできるようなことではないと思いますが、考えるきっかけになれば、と思っています。

老いとか死ということが、なぜ「信じる」ということと関係するのか、どうして「信じる」ということが私たちにとって大事な意味をもつのかということは、ちょっとわかりにくいですね。宗教で「信仰」というと、何か大事なことのようにいわれますが、一方で、何かちょっと特殊な感じがしたりします。なにかよくわからないものを信じるとか、ただの思い込みとか、何か心が弱い人が頼るというようなイメージがあるかもしません。とくに最近ではカルト宗教の問題がでてきて、なにか信じるというと、妄信する、というような危険なかんじがしたりします。そんな思い込みが人間にとって大事といわれたら、なんか空しいですね。そんなものを大事にしてきたのでないとおもうわけです。宗教の信仰ということは、私たち人間が、人間として生きていくうえで、どうしても向き合わないといけない深い問題に関わるものだと思います。それは、私の場合は病院でいろいろな患者さんと接する機会があるわけですが、その患者さんがぶつかる問題と大きく関わっているということを、仏教を学んで初めて知りました。

ですので、宗教の信仰ということが、実際に私たちが生きていくということどう関係するのかということを今日は確かめておきたいと思います。

1. 信の崩壊—ALS患者さんの問い

僕は病院に20年ぐらい勤務していまして、専門は神経内科という科です。そこではいろいろな神経の難病をみるのですが、とくに重い病気でALSという病気があるんですね。聞いたことがあるかたもあるかもしれません。ひょっとしたら身近におられるというかたもあるかもしれません。非常に過酷で、全身の筋肉が動かなくなっていく病気なんですね。この病気の方から、いろいろなことを教えていただいたように思います。というのは、身体は動かなくなるのですが、考えたり感じたりという思考の力は落ちないですね。ですから、病気を受けとめていくということはどういうことなのか、いろいろな苦悩や問いがおこってくるわけで、そういう声を聞かせていただくんですね。

それに対して、医者は何をするかといえば、この病気は治療法がないんですね。ですので、大学でこの病気の研究をしていました。けれども研究したからといって、目の前の患者さんの問題が解決するわけではないわけです。ではどうするかといえば、いま起こっている問題を分析するんですね。

例えば、ALSでは寝たきりであれば、痛みがでてきたりする、そういう身体的問題を解決しようとする。また、病を抱えて精神的に気持ちが落ち込んでいるように心理的問題と考えれば、抗うつ剤を処方する。社会的問題と考えれば、介護について心配しているんじゃないか、と考えれば、介護サービスとか社会制度を利用できるようにするとか、そうやって、多角的に考えるのが大事だ、というふうに教育されたりもするわけです。だから、病気は解決できないまでも、問題は把握しているという認識でいる。研究もしているし、問題もいろんな方面から考えるし、なにか病気について知っているつもりになっていました。

けれどもその自信が崩されるというか、破られることばをかけられました。あるALSの患者さんにかけられた一言がずっと残っています。「あなたにはわからない」という言葉です。何を知ったつもりになっていたのか、声を聞くといって、いったい何を聞いてきたのか、そういう自分が積み重ねてきたものが崩されるということがありました。

僕は医療現場で抱いた自信のようなものを二度くずされたと思っているのですが、一度は患者さんから、そして二度は仏教を学びに大谷大学に入って先生に出会ってからだと思っています。一つは、先ほどの患者さんからの「あなたにはわからない」ということばをとおして、病を生きるということの何を知ったつもりになっていたのか、患者さんの声を聞くといって、いったい何を聞いてきたのか、寄り添うといって何に寄り添っていたのか。そういう問いです。

しかし、ここで問われたといっても、あくまでそれは対象としてというか、患者さんの問題にどう向きあうのか、という問われ方です。何をわかっていないのか、何を聞いていないのか、という、「何を」という対象ではなくて、その聞いている自分自身を問われることはなかった、それは仏教を学んで初めて問われたわけです。宮下先生という仏教の先生に出会って「君自身はどうなんだ」と問われたということがありました。

病気がなおらないという問題は、その人だけの問題であって、その人と代われるわけではない、その人にしかわからない、というところを越えられないわけです。どうしても個人的な問題、というところを越えられないわけです。けれども患者さんの問題というのは、君自身が生きるということの問題でもあるのではないか。そういう問われ方というはこれまでしてこなかったわけですね。

どういうことかというと、それは、自分は何を最も大事なものとして生活しているか、ということが問われているわけです。「生きがい」とか「生きる喜び」といっても良いかもしれません。

たとえば、ALSでは働き盛りの人が、身体が動かなくなって、仕事ができなくなる。仕事が生きがい、生きる喜びであれば、それが崩れるわけですね。では仕事ができなくたって、まだ自由に動けるからいいじゃないか、それがあればよいと生きる喜びをさがすが、それも崩れる。では動けなくても、美味しいものが食べられればいいじゃないか、というがそれも崩れる。では動けなくても、食べられなくても、せめて意思疎通ができれば、それが喜びだ、それがあれば人間として生きていける、とおもったら、それもできなくなくなる。閉じ込め状態といますが、どんどんとこれさえあれば生きていけるという依り所が、くずれていく。そんななかで、果たして、何をよろこびとすればよいのか。閉じ込め状態となった人生に喜びはあるのか?そうなっても生きていく意味があるのかという疑問が起こるわけです。これまで喜びである、これが人間である、これがあれば私であると信じてきたものがすべて崩れ、それでも人生に喜びはあるのか。何のために生きるのか、生きる意味を求めざるを得ないわけです。

そんなふうに、いままでこれが生きる意味だ、喜びだと信じてきたことが崩れて、周りを見渡してもなにも生きる喜びがない、というなかで、人間として、私が私として生きる支えになる確かなものって何だろうか。それがわからなくなるわけです。信じられるものがなにもない、ということは、私たちにとっては、人生が生きられなくなるという根本的な問題なわけです。

だから信じるということは人間が生きることをささえる根っこにあるわけです。それは、いのちを分析して、身体的問題とか、精神的問題とかいって分析しても見えてこない問題なわけです。

2. 私たちにとって「信じる」とは何か —認知症患者さんの問い

これはALSという特殊な病気だけのことではないんですね。たとえば認知症の患者さんで、家族の人が朝もずっと寝ていて起きてこない、どうしたらいいかと相談されるですね。それで、本人さんは何か言いたげにしているけれども、だまっているわけです。それで、二人だけでお話しすると、その心境をかたられました。朝起きてもすることがなくて空しい、みんなのまえにでても居場所がない、というんですね。仕事が生き甲斐だったができなくなった。仕事を辞めて、さあ趣味のゴルフをしよういうときに、認知症でそれも難しくなってきた。じゃあせめて孫の世話をとおもう。しかし孫も成長してかえって煙たがられる。そんなふうに、自分にとっての生きがい、喜びと思ってきたものが崩れる。これこそが自分の喜びだというものがわからなくなる。「確かな自分」がわからなくなるわけです。

そんななかで家族がたとえばトイレをよく失敗するから、汚さないようにと思って手伝う、そうすると本人すれば、失敗を責められているように思う。いままでだったら父として、夫としての役割があって居場所があった。そんな「確かな居場所」だと思ってきたところに信頼が置けなくなるわけです。そんなふうに、確かな自分、確かな居場所がわからなくなって、朝起きることも何か空しい、ということになるわけです。

そんな風に、私たちは普段は気がつかないですが、仕事だったり、家族だったり、趣味だったり、いろいろなものを信頼して、それを生活の支えにしているわけですが、それが崩れる、確かだと信頼できるものがないというわけです。

そういうように、普段私たちが、知らず知らずのうちに生活の支えにしているものを仏教の言葉でいえば「諸行」といいます。「諸行無常」の諸行です。これは形作られたものという意味です。

諸行と言えるもの、形成されたものを、私たちの生活の身近にあるものから挙げてみましょう。 親子、夫婦、家庭、友人、学校、仕事、会社、あるいは田畑、家畜、財物、あるいは政権、民族、国家、あるいは知識、技能、資格、思想、イデオロギーなど、 いろいろと挙げられます。これらはみな、形成されたものと一言で言えますが、さまざまな意味や価値をもって形づくられたものです。
ここに挙げたものはみな、生活にとってとても大事なものばかりです。時にマイナスの価値をもつものとなるにしても、意味あるものとして形づくられたものばかりです。これらは、私たちの生活のよりどころであり、支えだと言えます。だから、私たちは、それらを喜びとし、時にそれらを誇り、支えにして安んじて生活していきたいと思っています。そしてこれらが、私たちの生活の支えであり、よりどころであると喜ぶことができるのは、そうだと信じているからなのです。信頼があるから、そこに自らの身をあずけて安んずることもできるのです。そうすると、私たちの生活の土台になっているものとは、その信頼関係なのだと言わなければならないでしょう。(p.53-54)(宮下晴輝『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』)

信頼というものは私たちの生活の土台になっているわけですね。だから「信じる」ということは何か特殊なものではなくて、私たち人間にとってはなくてはならないものだということですね。けれどこれは崩れやすいと言うことですね。

信頼によって私たちの生活は成り立っているのです。信頼がなければ、この身一つそこによせることもできず、安らぐ場所を失ってしまいます。それほどに信頼ということが大事です。それにもかかわらず、これほど危ういものもないのです。信頼関係の崩壊は、まったく容易にやってきます。噓が入れば、どんな信頼関係も崩壊してしまいます。これは、私たちが身にしみて知っていることでしょう。(p.55)(同上)

人間関係でもそうですね。一回信頼関係が崩れると、取り戻すことは難しいですね。そして、自分の生きる依り所とか、生きる意味とか、生きる喜びに対する信頼というものもまた、崩れやすいわけです。治らない病気になったとき、ほんとうに人生に行き詰まったときに、お金とか名誉とかは支えにならないわけです。ALSで閉じ込め状態になったら、死なせてほしいという人と対話をする番組がテレビでやっていましたが、それでも生きてほしい、あなたが生きているだけで家族はうれしい、というが、家族のために生きるといわれても酷だ、といわれてりました。家族も支えにならないことがあるということですね。

3. 老・病・死の問題

だから老病死によってなにが奪われるかといったときに、もちろん身体であったり、いろいろな力、能力であったり、そういうものが奪われるということがあるわけですが、何よりも、そういう生きる意味とか、喜びとか、依り所とかそういうものに対する信頼がなくなるということが一番重い問題ではないでしょうか。

信頼できる家庭や仕事があるということは、私たちにとっての生きる喜びです。信じられるものがあるということは喜びです。そんな喜びのことを、生きる意味と言ってもいいでしょう。したがって、生きる意味を疑うというのは、本当に心底満足して喜ぶことなんてあるのだろうかと思うことなのです。
一人死にゆく苦しみの中で、寂しさや空しさを超えて確かな支えとなるものは何もありません。どこにも本当の喜びを見出せなくなります。それはまた、何ひとつ信じられなくなるということでもあります。
したがって、老病死を見たということによって、これまで信頼し喜んできたものが、もはや本当に信頼し喜ぶことができなくなってしまうこと、これまで支えであると信じてきたものが、確かな支えではなくなること、これが「老病死を見て無常を知った」ということの内実なのだといえるでしょう。(p.59)(同上)

「老病死を見て無常を知った」「諸行無常」ということですが、「なんとなくはかない」という意味ぐらいにしか捉えていないわけです。でもそれだとわざわざいってもらわなくても、まあわかるわけですね。身をもって知っているというか。けれども、それがお釈迦さまが出家するきっかけになっているということは、それだけではないんじゃないかということですね。もっと私が生きるということを根っこから揺さぶるようなこと問題にしているわけですね。こう、生命としては心臓もうごいているし、腸もはたらいている、けれども生きること自体が苦しい、むなしい、さみしいと言うことがあるわけです。今日お話ししていますALSの患者さんや認知症の患者さんが問題になったこと、それが「信頼」が崩れるという問題で、お釈迦さまもそのことを問題にしている、と教えていただきました。それが、実は宗教の「信仰」ということが問題にしていることですね。そのことを押さえておかないと、宗教と言うことがなぜ人間にとって大事なのかということがわからないわけです。

だから、これは心が弱いとか、経験が足りないとか、そういう問題じゃないんですね。「人間だから」抱えている問題なわけです。逆にいえばそこに人間らしさがある。だからこそ、カルト宗教のように、そこにつけ込む人もあるわけです。わたしはだまされないとおもっていても、人間は信頼を求めているわけですから、それが偽物であっても、信じてしまうんですね。

このように人間にとって大事でもあり、またそれによって迷ってしまうものでもある。だから信じるこころそのものを丁寧に確かめないといけないわけです。何を信じるか、ではなくて、信じる心そのものを確かめることが大事なわけです。「信じる心」が迷う。でもカルト宗教は「何を」ということばかりいいますね。教祖様のように人を信じるとか、壺を信じたら病気が治るとか。それはおかしなことですが、バカにできないわけですね。私たちは信じるものが崩れたらいきていけないわけですから。ですからほんとうに生きていける「信」、ほんとうに人生を満足に生きていくことのできる「信」とは何か、ということを丁寧に確かめて、それを大事にしてきたわけです。だから親鸞聖人は、教行信証の中で「ただこの信を崇めよ」といいます。仏を崇めよとか、私を崇めよとかいわない。ほんとうに人生を満足に生きていくことのできるような「信」が得られたなら、その信が大事なのだといわれるわけです。ところが私たちはほんとうのものでないものでも信じてしまう。

そのことをうまく表している詩があります。浅田正作さんの『骨道を行く』という詩集にこのような詩があります。

「いれもの」
やどかりが
自分の殻を
自分だと言ったら
おかしいだろう
私は 自分の殻を
自分だと思っている
(浅田正作『骨道を行く』)

殻を自分だと信じているのが私たちですね。これは自分のものだ、といって自分でないものを掴んでいるわけです。さきほど「諸行」を喜びとしているというはなしをしましたが、仕事とか、能力とか、そういうものを喜びだと信じていて、いつのまにかそれが私そのものであるかのように信じているわけです。それがなくなったら終わりだとおもうようなところまでいくけれど、それはやどかりでいえば自分の殻であって、自分そのものではないわけですが、自分だと信じているわけですね。ほんとうは殻では無くて、自分自身を見て、それを確かなものとしていかなければおかしいわけですが、そうではないものをほんとうのものにするわけですね。安田理深先生は、このようにおっしゃっています。

「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする。」(安田理深『講述「化身土巻」)

そういう意味で、殻をよけいに硬く信じてしまっては、中身がどんどんみえなくなる。中身をはっきりとさせてくれるものが仏教の智慧ですね。阿弥陀さんが見ているもの、ということだと思います。

4. 真実を求める心

ですから、信じるものが崩れたとき、私たちはどうするのか。それが問題です。いままで見てきましたように、「諸行無常」ということは、信じることが崩れる、生きる支えがわからなくなる、ということで、私たちが、老いや病、死ということを受けとめていくうえで、大きな問題となることでした。

では「諸行無常」と知って、信じることが崩れると知ったら、私たちはどうするかということですね。単にはかない、ということであれば、今のうちに楽しんでおこう、となりませんか。だいたいそうですね。花は枯れる前に楽しんでおこうといいます。けれどお釈迦様は出家をしたわけです。お釈迦さまは王宮で何不自由ない生活をしていたわけですから、出家する必要はないわけです。むしろ私たちがふつうに望んでいるのは王宮の生活の方です。王宮にはお金もあるし、楽しみもあるし、不自由ない生活がある。だからなぜ出家をしたかよくわからない。

でもいままで確かめてきたことを振りかえると少しわかるかもしれません。先ほどから確かめていた、認知症の患者さん、いままで喜びだと信じてきたものがわからくなった。朝起きても空しい。そんな中で、周りの人は介護サービスとかをつかって、デイサービスに行きましょうというんですね。で、行って何をするかと言ったら、ゲームしたり、レクリエーションをしたりするわけです。そりゃ、たまにはそういうのもいいかもしれません。でもやっぱりそれだけだとなにか空しいわけです。そういうものが確かな支えにならない。だから行きたくない、という患者さんもおられますが、なにかわかるような気がしませんか。

安田理深先生の奥さんが一〇三歳まで生きられたと思うのですが、一〇〇歳を越えても相応学舎で一番前に座って仏教の話を聞いておられました。それと同時にデイサービスにも行っておられましたが、「『結んで開いて』とか、ああいうことは空しい、もう少し人間についての学びをしたい」とおっしゃっていたらしいですね。やっぱり人間として生まれて、せっかく生まれたのだから、生まれた以上は、この人生でしか出会えなような、何か深いものに出会いたいという心が私たちにはあるわけです。その心が実は大事な心なんですね。仏教のことばでいえば「菩提心」といいます。ほんとうのこと、確かなことを知りたいという心です。やどかりのはなしでいえば、殻ではなくて自分自身をしっかり生きたいわけです。確かなところを歩みたいということですね。そういうものを求めて出家したのがお釈迦さまですね。

では、なぜ信じるものが何も無い、というなかから、出家する、出家するというのは、もともと前に向かって歩み出すという意味ですから、なぜ、そうやって絶望の中から前に向かって歩み出すことができたのか。それはとても大きな問題です。このことだけで、またもう1回お話しないといけませんが、もう時間がありませんので、少しこのことのヒントになることとして、このかたを紹介して終わりたいと思います。

岩崎航さんのお

信じるものが崩れていく中で、何を確かなものとして生きたらよいのか、そういうことを教えてくださるのが、岩崎航さんというかたです。この方は筋ジストロフィーという筋肉の病気にかかって、三歳で発症して、だんだんと進行していくんですね。

同世代の友達や知り合い、みんなの姿を思って、自分と違って楽しい高校生活を送っていたりするんだろうなとか、どうしても人と自分の境遇を比べてしまったんですね。

そうすると、本当に気持ちが沈んで暗くなるんです。人と比べている間は、本当に苦しかったです。なにかにつけても涙が出てくるんですね。なんで自分だけがということと。自分はできないけれど、周りはできると。そういうふうにどんどん自分で自分を追い込んでいって、ついには、この病気の体をもったまま生きていても将来はない、希望はないと思い込んでしまったんです。

こんなふうに絶望されるんですね。信じられるものがなにもない、生きる喜びが何もないという、今日お話ししたような、信が崩れては生きていけないという問題に若くしてぶつかったわけです。

ところが、そのときに、こういう気持ちが沸き起こってきたというんですね。

ですが、死のうと思ったときに湧き上がってきた気持ちというのは、このまま自分が死んでしまったら、自分はなんのために生きてきたんだろうという問いでした。そうしたらすごい、心の奥底から、このままでは死にたくないという気持ちが湧いてきたんです。

苦しい中で、いったい自分はなんのために生まれてきたのか、私が人間としてうまれていのちを全うしていくとはどういうことか、いいかえれば、「ほんとうに私が私として生きるとはどういうことか」「ほんとうにいのちを全うするとはどういうことか」という問いがおこったわけですね。つまり、これまでの岩崎さんは「人と比べてばかり」とおっしゃっていましたが、やどかりでいえば「殻」を比べているようなものですね。そうではなくて「自分自身を生きたい」というこころがあることに気がつかれたわけです。そうして、

そこからもいろいろ葛藤があって、苦しんだり悩んだりしたんですけど、やっぱり最後には自分、病をもちながら生きる病気を含めての自分なんだ。

ようやく病を含めての自分として、生きるという気持ちが固まった時に、はじめて私は、自分の人生を生き始めたんだと思うんですね。

病も含めて自分なんだと定まって、はじめて私は、自分の人生を生き始めた、とこうおっしゃっているんですね。ほんとうでないものをほんとうにしてきたような今までの人生から転換して、ほんとうの自分をいきようという人生が始まったわけです。

そのことを詩に表されています。

たとえ何ものも
自らを
生きることの
芯までを
焼き尽くすことはできない
(岩崎航『点滴ポール 生き抜くという旗印』)

「生きることの芯」というのは、私たちがもっている、ほんとうの私を生きたいという心ですね。仏教の言葉で言えば「菩提心」です。病があってもそういう心まで奪うことはできないんだというわけですね。

信じるものがないといって苦しんできたわけですが、確かな自分なんていうものがない、と諦めてしまえば、苦しむこともない。けれど逆に喜びもなくなるわけです。何もない、もののようになる。けれどそれが一番怖いことだと、ALSの患者さんもおっしゃっていました。「石になっていく」のがこわい、と。喜びも悲しみもなくなる。そうではなくて、現に苦しんでいるのは、「人間だから」なんですね。そのことを宮下先生はこのように教えてくださいました。

なぜ苦しむのか。それは真実を求めているからです。苦しみそれ自体を支えているのは、真実を求める心なのです。苦しむという形で、私たちは、真実を求めているのです。何も信じられないという苦しみのただなかに、真実を求める心が現にあると認めざるをえません。
この真実を求める心が自らの内に明らかにあるのだと認めることが、ただ一つ信じられるものなのです。そして自らにその心を認めることができれば、他者の上にもそれを認めることができます。それは同時でしょう。

「苦しむという形で、私たちは、真実を求めている」これはとても自分自身にとっても力になりました。「苦しい」ということは、ほんとうに私がいのちの大事な意味に出会いたいから苦しんでいる、ということですね。「真実」というとかたいですが、「確かなもの」ですね。先ほどの認知症の人が、何となく空しい、確かなものがどこにあるのか、という問いの中にも表れていますね。

そのように私たちが悩んでいること、苦しんでいることの大事な意味をおしえていただくのが仏教だと思っています。

私たちは苦しいときには、どうしてもそれを無くしたい、という自分の思いに閉じこもってしまいます。「わたしがそう思うんだ」「自分はそう感ずるんだ」「自分はそうしたいんだ」と、どうしても自分というところに閉じこもってしまう。岩崎さんであれば、「他人と比べて自分の人生は意味がない」と決めてしまいそうになった。ところが岩崎さんに、「病気を含めての自分なんだ」ということに気づかせたものがあったんですね。それは何でしょうか

そのことはまた機会があればお話ししたいと思います。それが、「本願」ということだと思います。「ほんとうの自分に気がついてほしい、ほんとうの自分を生きてほしい」という願いですね。それが仏教で言う「本願」ということだと思います。このことはもう今日はお話しできませんので、もしまた機会がありましたら、この「願い」「本願」ということを確かめていきたいと思います。

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