[この記事は『崇信』二〇二三年一月号(第六二五号)「病と生きる(86)」に掲載されたものです]
認知症の母の介護に手を焼いている、と息子さんから相談があった。尿や便を頻繁に漏らしてしまうという。膀胱括約筋の働きは弱くなるし、尿意や便意を感じにくくなる。動作が緩慢になって間に合わないこともあるし、空間の認識がしにくくなってトイレの場所がわからないということもある。様々な原因で排泄がうまくいかなくなる。
ご家族もそのことはわかっていて工夫されている。様子をよくみてトイレに行きたそうだったら誘導したり、あらかじめ決まった時間にトイレへ促したりする。どうしても漏らしてしまうので紙パンツを使う。それでもうまくいかない。
失禁というのは、物忘れ以上に本人が傷つくものである。事実としては膀胱括約筋が減弱し、尿意が減弱し、空間失認があるだけである。老化の自然な過程であるその事実に対して、「情けない」とか「汚い」という価値を勝手に付けているのが我われのあり方である。「トイレでしなければならない」という介護者の都合を押しつけているとも言える。うまくいかないのが当然であるのに、それを「失敗した」と責める。そうやって本人は傷ついていく。だから責めないでほしい。汚れたら掃除すればいいじゃないか、というぐらいの態度で接してほしい。
そんな話をしてきた。しかし。それはわかっているのだが、あまり頻繁だと滅入ってしまう、と。それに紙パンツ代がばかにならないらしい。寝たきりではないから重い介護度は認定されず、介護保険でまかなえる分も限られている。さて、どうしたものか。
村瀬孝生著『シンクロと自由』は、介護の現実をリアルに映し出す。このなかでもお漏らしについて取り上げられているが、まず目標が先立つ介護がはらんでいる問題を「シンクロは気持ちいい」の項で指摘する。
「する」ことや「しなければならない」ことで頭も体もいっぱいとなり、お年寄りの体が発する微弱なサインが入り込む余地が生まれない。(九十六頁)
このようにいい、いかに通い合うのか実際の様子が語られる。しかし一方で、「シンクロか、乗っ取りか」の項では、排泄感覚はわたしにとっては固有なものであり、他者にはわからないはずなのに、他者がそれを察して介入してくるというのは、薄気味悪く感じられてもおかしくないと指摘する。そしてこのようにいう。
お爺さんの体とのシンクロに努めることで気がついたことがある。あの手この手で関わってもうまくいかず、万策尽きたとき、なぜか、ホッとすることがある。首尾よく事が運ぶことよりも、うまくいかなかったときに訪れる「これでよかった」と思える感じ。あの、安堵感のようなものは何だろうか。シンクロできずズレが生じたときこそ、お爺さんの輪郭が鮮明になる。ズレがお爺さんの意思となって立ち上がってくる。(一〇四頁)
「同じ人間として」の苦悩をいかに共有するか。それは一つ大きな課題としてあるが、同時に、個が個として尊重されるということがまた大きな課題である。安田理深先生は
「我々は身をもつことでDa-sein(現存在)のdaがきまる。霊性というものの優位を認めて身体を侮辱するのは、宗教として未熟である。身体を持つことで、いつかどこかでだれかとしてあることが決まる。いつかどこかだれかはdaである」(『安田理深選集第四巻』二二六頁、( )内は筆者)
といわれる。これは『唯識三十頌』第十九偈の「諸業の習気と二取の習気」(註)について述べられている箇所であるが、「二取の習気」はSein(存在)という生死それ自体を与え、「諸業の習気」はda(いつかどこかだれか)という限定を与えると確かめられていく(同上、一六九〜二九八頁参照)
苦悩を共有するということは、二取の習気つまり等流習気であり「分別」の課題、ズレから鮮明になる輪郭というのは、諸業の習気つまり異熟習気であり「業」の課題といえないか。どんな「ことば」をもってどんな「身」を生きるかという課題ともいえるだろうか。どうにもならない問題を乗り越える、生死を超えるという人間としての課題を、そのように整理して確かめてみるとどうだろうか。
(註)習気・・・種子の別名。現行を生じるという点からは種子といい、阿頼耶識に熏習されたという点からは習気という。
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