満点

[この記事は『崇信』二〇二四年二月号(第六三八号)「病と生きる(98)」に掲載されたものです]

脳卒中の後遺症で長らく外来に通院されているかたがおられる。右上下肢に麻痺がある。以前、片手ではマスクをつけにくいという当たり前のことに気づかせていただいた方である(「病と生きる(63)マスクをめぐって」『崇信』二〇二一年二月号)。

先日、トイレが間に合わず汚してしまったという。麻痺があるために思ったように歩けないしすぐにズボンを下ろせない。それはわかっているから、それを見越して早めに動いたつもりであったが、ギリギリのところで間に合わなかったという。いつも冗談をいうかたで、そのときもおどけた調子で、「それを妻がバカにするんです」「情けなくなりまして」などと言われた。そのときのお顔は朗らかに見えたが、目の奥は笑っていないようにも思えた。

運動麻痺があるのだからトイレに間に合わないのは当然である。奥様からすれば、わかっているのだからもっと前もって動きなさいということだろうか。それは健康な人が努力すれば何でもうまくできるという立場からの考えである。本人もそれはわかっていて精一杯やった結果できなかったのである。それをバカにするなどということは、人によっては深く傷つき追い詰められるようなことだろう。この方はさほど気にしていないようにも見えたが、本当のところはわからない。

「努力でどうにもならないことを責めるなんていうことは、やめてほしいですよね。僕なんか、最近小さい字にピントが合わなくなって、こうやって手を伸ばして読んでたら、老眼だといって妻にバカにされまして。」そんな話をしたら、大笑いされて「先生もですか、お互いつらいですね」と場が和んだ。

 努力すれば何でもできるはずという立場に立ちやすいのは、努力して今の境遇を得ていると考えている人、とくに私も含めた医者などには多いかもしれない。学校が終わってからも塾に通い、人一倍の努力をして大学受験をし、入学後も膨大な量の知識を学び、就職後も休みなく遅くまで働き、たまの休みの日も最新の知識を得るため勉強する。そうして努力して築いたことや成功の体験は、当然病気や状況によっては当てはまらないはずなのに、何にでも当てはめようとするのである。だいたい自分がしてきた努力は、それができるような境遇が与えられていたからできたのであって、自分だけの力ではない。それにもかかわらず自分の努力によって、何でも解決できるはずだと考える。その論理を自分に当てはめれば人生に行き詰まるし、他人に当てはめれば心を傷つけることになる。

 ある認知症の患者さんの奥様からは、こんな相談をされた。「物忘れがひどくなっている。私も努力しているのだから、本人にも日記をつけるとか忘れないようにする努力をしてほしい。先生からも本人に努力するようにいってほしい」と。このように言われるご家族が多いことに暗澹たる気持ちになる。強者の論理を押しつける人があまりにも多い。「腕がない人に、物をつかむように努力しなさい、と言いますか?記憶がつかめないのですから、それは努力ではどうにもならないんです。けれどもそれをたすけるために工夫することはできます…」いつもそのようなことを言うが、聞く耳を持つ人は少ない。

 児玉曉洋先生は、『浄土の人民』の中で、文部省の採点法では百点が一番で一点が一番つまらないが、阿弥陀さんの採点法は、五十点の実力のある人が五十点を取ると満点なのだ、阿弥陀さんはその通りであることを最高とされるのだ、と言われる。だから相対的な価値基準から落ちこぼれたといっても、摂取不捨の阿弥陀さんから落ちこぼれることはないと。このことに目が覚まされる思いであった。

 トイレに間に合わなかった脳卒中の方も、畑仕事の日記を朧気な記憶の中でなんとかつけようとする認知症の方も、満点だと見られるような眼差しのなかで生きられたら、どれだけ生きやすいか。みなそれぞれの場所で精一杯生きているのだから。