[この記事は『崇信』二〇二四年四月号(第六四〇号)「病と生きる(100)」に掲載されたものです]
「計画通りに一日がすすまない」それが主訴であった。計画を立てるが、その通りにいかなくてストレスを感じていると。認知症ではないかと心配して受診されたのであった。確かに認知症には、「遂行機能障害」という高次脳機能障害がある。目標の設定し、計画を立て、その計画を実行し、判断・評価しながら調整する能力の障害である。例えばカレーをつくるとすると、必要な食材を考え、買い物に行き、材料がそろったら野菜を切り、肉を炒め、カレールーを入れて、などと計画を立て、そのとおりに実行していく。途中で炒め具合をみたり、味付けを調整したりして完成させていく。認知症があると、それが途中で止まってしまったり、順序を間違ったりする。
ところが、認知症の検査をしても全く異常がない。頭部MRIでも脳の萎縮は年齢相応である。付き添いの息子さんによれば、父が腰を痛めて体調をくずしてから、母の調子もわるいのだという。もともと真面目な性格で、思った通りにきっちりやらないと気が済まないのだという。そこに夫の体調不良で夫の介助をしないといけないから、自分がしようと決めたことが計画通りに進まないといっておられるのだろうか。それならば、思いどおりにならないのは当然であって、思いどおりにしようとする、その思いが苦しみのもとではないか。
そこで私は確か、だいたいこのようなことを言ったと思う。認知症は関係なさそうです。旦那様の病気が関係しているのかもしれません。病気は計画どおりには来てくれませんから、「こうしなければ」ということを強く掴んでしまっては、そうならない現実とのギャップでしんどいのではないでしょうか。掴んだものを手放すのがいいかもしれません、などと。それを聞かれてそのかたは、なるほどそうですね、と少し明るい表情になられたので安心したのだが、それは後から思えば、「知ったようなこと」を言ってしまっていたのだと気づかされることになる。
一か月後、もう一度受診され、同じような訴えがあった。そして同じようなことを繰り返し話しつつ、気になって旦那様のことをたずねた。腰を痛めたということぐらいしか聞けていなかったが、もう少したずねてみると、いろいろなことを話していただいた。もともと芸術家で、ある分野で活躍されていたらしい。最近までなんとか頑張っていたが、今回体調をくずしてからは、いよいよその活動もできなくなった。それからは部屋が荒れ、時にはイライラして部屋の中で物を投げたりするようになった。そして死んでしまいたいというようになったというのである。
何もわかっていないのに、知ったようなことを言ってしまっていたと気づかされた。計画通りにいかないどころではない。生活の根幹がゆらいでいるのである。掴んだものを手放せばよいという前に、人間の根本問題を見なければならなかったのである。人間は生きがいを失って生きていけるのか。生きる意味への信頼が崩壊し、確かなものが何もない中で、一体何を確かなものとして信じれば生きられるのか、という問題である。そういう夫の「信」の問題に、妻として向き合おうとされるなかでの苦悩だったのではないか。まさに老病死を見て諸行無常を知り出家したという、「四門出遊」のエピソードとして表されている釈尊の課題である。
夫の問題であるが、それは妻の問題であり、釈尊の問題であり、人間の問題である。その問題を忘れている私が、向き合っている人に対して、知ったように答えを語っていたのである。釈尊の老病死の課題を一歩も離れずに、事に当たらなければならない。
確かな生きがいが失われて生きられなくなるということは、誰もが抱える大きな問題であること、その問題に直面しておられることを知らず、知ったようなことを言ってしまっていたこと、生きる力になることを夫婦で探して行かれるという、そのことをまた聞かせていただきたいということなどをお伝えして、その日の外来は終わった。
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