[この記事は『崇信』二〇二五年一月号(第六四九号)「病と生きる(108)」に掲載されたものです]
病院の外来をしていると「さみしい」という声をしばしば聞く。本誌でも孤独をテーマに何度か書かせていただいた。
孤独に対して、「社会的処方」という実践をする人たちがいる。「患者の非医療的ニーズに目を向け、地域における多様な活動や文化サークルなどとマッチングさせることにより、患者が自律的に生きていけるように支援するとともに、ケアの持続性を高める仕組み」(西智弘『社会的処方』)と説明されている。要するに薬ではなく居場所を処方するという発想である。処方といっても一方的なものではなく、基本的理念として、人間中心性、エンパワメント、共創ということが挙げられている。それぞれ、その人が中心であること、その人の持っている力を引き出すということ、もともとなかったものを一緒に作っていくことと説明される。その人を変えるというより、社会を変えるという側面があり、その意味では大事な活動であると思う。
一方で、直接的に「さみしさ」をなくすという発想のもとでは、すぐに解決法へと目が移り、「さみしさ」はどこからくるのかと根源的問題を確かめることができない。在宅医療の第一人者である早川一光医師は、自身が築いてきた在宅医療を受けて「心の奥深いところで常に流れているこの寂しさを知ったとき、僕は驚き、動揺した」と言った。(病と生きる(50)『崇信』二〇二〇年一月号)。認知症の第一人者である長谷川和夫医師は、自身が推奨してきたデイサービスに行き、「ひとりぼっちなんだ俺、あそこに行っても」と言った(病と生きる(64)『崇信』二〇二一年三月号)。環境や状況を整えるだけでは解決しない問題が人間にはあると押さえるべきである。児玉曉洋先生はこのように言う。
人生において、いろいろな苦しみがあるけれども、それはずっと突き詰めていくと、独りぼっちで死んでいくという孤独と死、その二つが一番深い問題である。この世における生活の諸相、男であるとか女であるとか、能力があるとかないとか、財産があるとかないとかという、この世の生活がとる諸々の相がたとえどうあろうとも、その諸々の形を支えているいのちそのものが「死すべき生」、つまり独りぼっちで死んでいくいのちである限り、その人の今生きる現在に、本当の充実はないということがあるのです。(児玉曉洋「一人・歴史・社会」児玉曉洋選集第四巻、一三三〜一三四頁)
誰もが、自分の死を引き受けるのは自分自身しかいないという意味で孤独である。生活の相をどのように変えたとしても解決しない問題がある。そして、それを乗り越えたのがゴータマであると児玉先生は言う。「ゴータマは、その老病死を必然的にともなう生、独りぼっちで死んでいくいのちでなく、一切衆生と共に永遠に生きるいのちをついに見出した」と。
児玉先生は別のところで、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を引用し、孤独(solitude)は一人であることを必要とするが、孤立(loneliness)は他の人といるときに現れるということを確かめたうえで、そのどちらでもない絶対的自立という意味での〈独り〉(monos)ということに注目する(「歎異抄に聞くV」児玉曉洋選集第十二巻、二九三〜二九四頁)。
エピクテトスの見ているように、lonelyな人間(eremos)は他人に囲まれながら、彼らと接触することができず、あるいはまた彼らの敵意にさらされている。これに反して孤独(solitude)な人間は独りであり、それ故「自分自身と一緒にいることができる」(『全体主義の起原』第三巻、三二一頁)
lonelinessは、人はいるけれどつながれない。ドイツ語ではVerlassenheitといい、見捨てられているという意味だという。「見捨てられている」と感じるならば、たとえ社会的処方を施しても「自分自身と一緒にいることができ」ない。自分が自分として生きられないのである。逆に言えば、社会的処方があるかどうかにかかわらず、「見捨てられていない」という実感は、自己と世界への信頼を回復し、人を自立させる。
そのことは、平野喜之さんのお母様と、孫の満理子さんのあいだに見ることができると思う。認知症の物盗られ妄想で、お母様から泥棒扱いされる平野さん。しかし一度だけお母様から「もう一人では無理。さびしい」という留守電が入っていた。「「さみしさをそのまま見つめる眼差し」を持たない私は、困った母だとしか思えない。しかし困った者は、そういう受け止めしかできない私自身」(平野喜之「流転日記(5)」『崇信』)と言い、小学生だった満理子さんが毎日電話をすることになった。すると、他の薬では改善しなかった物盗られ妄想がほとんどなくなったのであった。
したいことができたのでもない。力をひきだしたのでもない。役割を作ったのでもない。しかし、「見捨てられていない」という実感が、確かな自分と確かな居場所を回復した。摂取不捨という如来の大悲は、「見捨てられていない」という実感をもって人を自立させるはたらきのことではないか。
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