[この記事は『崇信』二〇二六年一月号(第六六一号)「病と生きる(117)」に掲載されたものです]
病と生きる(83)「如来の悩み」(二〇二二年十月号)で紹介した方の、その後のことである。ビタミンB1と葉酸の欠乏による小脳失調と認知症症状があり、補充すると改善したのであった。そのとき、「よくなっているし困っていることはないんですが、生きることがつらいですね」という言葉を投げかけられたのであった。
そのことを受けて、私はこう記していた。
物忘れや歩きにくいという日常の不満である「人間的悩み」は解決しつつある。それは医学の問題領域であるが、それをいくら深めても、「生きることがつらい」という問題については、出発することすらできない。それは単に不満から来る悩みではないような「深い如来の悩み」であり、それこそが仏教の問題領域なのではないか。しかしそこにはなかなか踏み込めない。
私は、生きることを根本から揺るがすような問題に触れられないでいた。
それは時間をかけて生活の変化として迫ってくる。しばらく外来に通い、身体的には安定しているように見えていた。しかしときおり「生きていてもしょうがない」「もうどうでもいいんです」などと口にされていた。それでも離れて住むご家族の支援のもと、何とか一人暮らしをしておられた。
しかし徐々に衰弱していく様子が見てとれた。そこで血液検査をしたが、特に大きな異常はなく、ビタミンB1や葉酸の欠乏も見られなかった。頭部MRIも実施したが、大きな変化は見られなかった。しかし次第に身だしなみの乱れが目立ち始め、昨年四月に受診したときには強い異臭も放つようになった。
「生きたい」という意欲が失われているように見えた。かといってそこに直接触れることができない。一体私には何ができるだろうか。一対一で出来ることは限られていることを痛感する。
しかし嘆いてばかりはいられない。これまで一人暮らしができており、介護サービスが利用されていなかった。外来看護師さんと相談し、まず地域包括支援センターに連絡してもらった。そしてヘルパーさんが入ったり、デイサービスに通ったりと、介護サービスが徐々に介入することとなった。
そして二か月後の六月、外来受診時に驚くべき変化があった。同じ人物とは思えないぐらい、笑顔で元気に診察室に入ってこられたのである。身だしなみはきれいになり、顔色も見違えるほど改善していた。「元気、元気。調子がいいです」と初めて聞くような言葉を聞くことができた。
これは一見、「介護サービスの介入が成功し、元気を取り戻した」という人間的悩みの解決であって、仏教の問題、如来の悩みというところとはあまりつながらないようにも思われる。そこに念仏が表立ってあるわけではない。しかし個では解決できない問題を、共同体が背負うという方向性を持つ点で、「浄土」の課題と共通するところがあるのではないか。
介護スタッフの皆さんの関わりがどうであったかは、連絡票のやりとりで知る限りで、実際のところはわからない。しかし、ただ生活がしやすくなり、清潔が保たれ、栄養状態が改善した、というだけではないような、生きることを支えるはたらきが、そこにはたらいているようにも思える。介護に関わる皆さんの「あなたを見捨てない」という心は、凡夫の心であり有限であるが、課題としては浄土の課題を担っているとは言えないだろうか。
安田理深先生は「願生偈聴記」の中でこのように述べられる。
二十九種荘厳功徳は正(まさ)しくこの共同体の問題であり、人間そのものの問題を明らかにするものである。こうして浄土は全く人間の構造そのものの持つ問題であって、浄土はあってもなくてもよいものではなく、浄土のない人間は、人として成り立たない。浄土を持ったことが、安心というものである。一人では安心はない。
浄土とは、皆と一緒におれることである。貧乏がなくなったり、悲しみがなくなったりした世界が土ではない。それはユートピアというものである。むしろ一緒に苦しめるし、一緒に悩み得る。いわば苦しみの共同体である。 (『安田理深選集第十巻』p.159)
苦しみの共同体があって、どうにもならない私というところに安んずることができる。我々は穢土に生きるが、浄土のはたらきは確かに届いている。しかし我々の現実生活の中で、苦しみをともにする共同体はいかに成り立つのかが問題である。






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