しかしそうはいっても、実際の医療現場で、そういう智慧、人間の問題を一緒にたづねていこうということにはなかなかならなくて、「これさえなければいいのに」「私はこうしたい」という、個人の問題というところを越えてたづねるということにはならないわけです。そういうことをもう少し確かめていきたいと思います。
『彼女は安楽死を選んだ』の放映
二〇一九年に放映されたNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』という番組を紹介させていただこうと思います。ご覧になった方もあるかと思います。ここに出てみえるのは多系統萎縮症という神経難病のかたです。この病気はいのちにかかわるというよりは、歩けなくなったり、話せなくなったりという、生活に影響してくる病気です。呼吸ができなくなるというところまでいく人は少ないですし、閉じ込め状態になることも少ない。だけど進行性の病気です。その方が、安楽死を決意してスイスに渡る。そして処方された薬を投入して、死に至る瞬間まで放送されるという、ショッキングな番組でした。それが非常に印象に残っていまして、いろいろな思いが溢れてきます。多系統萎縮症は神経内科では比較的よくみる病気です。そういう病を抱えて日々過ごしている方の姿をみる僕にとっては、そういう方々の人生が否定されたような悲しい思いの一方、それと同時に、患者さんが口にされるような課題と同じ苦悩を抱えておられるとも感じるわけです。
このようにドキュメンタリーとして見ると、いろいろな問題も見えてくるんですね。まず医者は安楽死の条件にあてはまるかどうか、ということしか確かめない。どんな苦悩なのか尋ねる場面はないわけです。ひょっとしたらカットされているのかもしれませんが、たぶんないのだと思いますね。また、死んでいく瞬間というのが、なにか、苦悩から解放されたような、見る人によっては美化してみてしまうのではないかというようにも見えました。死んだら苦悩から解放されるという、そういう演出がされているように思いまして、何か死後に往生するというのと同じようなごまかしというか、そういうものがあるように思いました。死も生も両方含めて人生全体の歩みを問うものでなければ空しい感じが私はします。
人間としての問題
『崇信』の今月号(三月号)に、目だけがすこし動いたということを書いたALSの方で、昨年十一月号ではその方に書いた手紙を掲載しましたが、先日、その方が亡くなられました。死というのは、ほんとうにすべて奪っていってしまう。これまで苦悩してきたことも全部終わってしまうようなんだけれど、それを苦悩がなくなった、終わったからよかった、「おつかれさま」と言っていいんだろうかということが引っかかっております。
確かに苦しみを終えて「おつかれさま」と言いたいわけですが、それはこれまでの人生全体に敬いがあるから言えるわけです。亡くなって解放されたからというのではなく、人生全体を全うしたから「おつかれさま」と言いたいわけですね。
ですから、苦悩をなくす、という前に、その苦悩の中に、人間にとってどんな尊厳があるのか、どんな意味があるのかということをしっかりとみていきたいと思うわけです。
そこで少し、安楽死を選んだこの多系統萎縮症のかたの言葉を確かめておきたいと思います。
「私が私であるうちに安楽死をほどこしてください」
「私が寝たきりで天井をずっと見つめていても、苦しがっている様子を見ても、生きてて欲しいって言いますか」
「天井を見ながら毎日を過ごし、時々食事を与えられて、時々おむつを替えてもらい、果たしてそういう日々を毎日過ごしていて、それでも生の喜びを感じているのか、生きていたいと思っているか、自問自答する」
こういうことをおっしゃっておられます。
「天井を見ながら毎日を過ごし、時々食事を与えられて、時々おむつを替えてもらい、果たしてそういう日々を毎日過ごし」ただそれだけでありがたい、今日も新しい一日が生きられた、と喜べないわけです。
「それでも生の喜びを感じているのか、生きていたいと思っているか」とここでおっしゃっているのは、先に確かめた、生きる喜び、意味が崩れていく、それに対する疑いということを言われていますが、これがまさに「老病死を見て無常を知った」ということですね。生きる意味を失ってはいのちが生きられなくなるという問題です。
それについて、「自問自答する」といわれています。ほんとうに生きる道はないのか、信じられることはないのか、という葛藤ですね。これはまさに「どうして出家することができたのか」という問題です。「疑いの中にあり、何ひとつ信じることのできないものが、何かに向かって歩み出すことがどうしてできるのか。」「絶望のなかからどうして歩み出すことができるのか」という問いといってもいいと思います。
これは、この人だけの問題ではない、この方の生き方とか精神力だとか、そういう個人的なことではなく、人間だから抱えている問題だと受けとめたいわけです。
ところが、「死にたい」ということ、安楽死を選ぶということについて、〝本人の意思を尊重するべき〟との声をよく聞きます。つまり個人の思いです。けれど、それを個人的な思いの問題にしてしまっていいのか、ということを思うのです。いままで確かめたように、それは「人間としての問題」とみる視点が欠けているのではないか。
「私も安楽死させてもらいたい」
しかし一方で、たとえば、命は自分だけのいのちではない、つながりの中をいきているのだ、というように、「つながり」ということが、生きることを支えるかのように語られることが仏教者のなかにもある。「ともに」とか「つながり」ということは、よくポジティブな意味で、良い意味で語られたりするのですが、ほんとうにそうか。ちょっと立ち止まらなくてはならないと思うことがありました。
これは実際にあったことですが、京都のALSの事件のあとで、病棟の患者さんが言われたことです。おそらくニュースで見ておられたんだと思います。「先生、私ももう安楽死させてもらうわけにはいかんやろか」と言われた。そして、その京都のALSの女性ですが、じつは、いま紹介したNHKスペシャル『彼女は安楽死を選んだ』を見たことが安楽死への思いを強めた一つのきっかけになったといいます。そしてそのNHKスペシャルで安楽死を選んだ女性は、同じ患者さんの姿を見て、こうなっては生きている意味がないと感じてしまった。
このように「こうなってはもはや生きている意味がない」といのちを無意味化する心が連鎖して、自分の目の前の患者さんまでつながってきてしまっているのを感じました。
私自身もそうですね。多くの難病の患者さんをみてきて、たとえ何もできなくても、一日生きることがすばらしい、そう思っていても、果たして自分がそうなったときにも、そう思えるのだろうか。そういう、こうなったらもう意味がないのではないか、といのちの意味を切り分けていく心がどこかにある。私がもし「寝たきりになっては生きていく意味がない」と考えるならば、それは「生きたい」と言えなくなるようなつながりの一端を担っているかもしれない。単純に個人の意思だ、ということですまない問題がある。にもかかわらず、個人の問題に限定し、個人で答えを出している。問いと答えをせまいところに押し込んでしまっている。仏教の言葉でいえば「分別」の問題ということになるのでしょうけれども、分別が連鎖している、ということを感じるできごとでした。
人間として生きることを支える出会い
つながりというと、ポジティブなイメージがありますし、いのちはつながっているから、自分だけのいのちではない、という言い方を仏教でもされる場合があると思いますが、どんなつながりなのか、ということはちゃんと見ないといけない。「生きたい」と言えなくなるようなつながりもまたあるということだと思います。だからこそ、「人間として生きる」ということをほんとうに支える出会いとは何か、ということが問題になってくる。
こういうところに、信仰ということを確かめていく時に、個人的な信仰にとどまることを問題にする、大乗仏教の課題につながる問題があるのではないか。個人的な思いではなく、人間としての問題を背負って、それを乗り越えたのが仏陀である、と改めていわないといけないということを、大乗仏教は課題としているということがいえるのではないか。衆生が抱える苦悩をすでに引き受け、乗り越えて人生を全うした人がいる。それだけで一切衆生にとって勇気になるはずなのに、個人の関心に閉じこもって、分別が連鎖していくということが起こる。そういう課題を大乗仏教が担っているのではないかと思うのです。仏道をささえる人間同士のつながり、出会いの根拠を丁寧に確かめようとするのが大乗仏教のひとつの課題ではないか、と受けて止めています。(続く)
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