阿難は笑ったか

 いつも認知症外来に来られる患者さんのことである。最近はいつもニコニコされていることが多かったのだが、その日は診察室に入ったときからむっつりと黙り、険しい表情をされていた。話せないわけではないが、普段から認知症のためにスムーズな会話にはならない。そのため、この日もなぜそのような表情なのか、いろいろお話を聞こうとするが、なかなかうまくいかない。ぼそっと「怒られた」と聞こえたが、「怒られたんですか?どんなことで?」と聞き返すと、「怒られてない」という。そうこうしていると、ふといつものようにニコリと笑い、看護師も「わあ、いつもの笑顔が見られてよかった」という。そして私も何かほっとした気持ちになったのだが、果たしてそれでよかったのか。

 笑顔になるように目指すことは良いことだと当然のように語られる。終末期医療の講演会を聞きにいくと、医療者は「こうすれば患者が笑顔になった」と自慢げに話し、最後は決まって笑顔の集合写真で終わり、めでたしめでたし、となる。しかし、そのことにずっと違和感を抱いていた。少し自分のことを考えてみても、笑顔だからといって心から喜べていないことはいくらでもある。笑顔という目標にばかり気を取られて、何か心の叫びのようなものを見過ごしているのではないか。向き合うべき現実がごまかされているのではないか。

 それに対して、そんなに難しく考えるからいけないのだ、そんなしかめ面していないで、とりあえず笑っておけばいいのだ、といわれることがある。笑顔を作ることが脳内で喜びの気分を生むということがもっともらしく語られる場合もある。しかし、笑顔になりましょう、などという人の多くは、相手がなぜそんな顔をしているのか初めから聞くつもりがないのである。目の前にある苦悩の事実を見ないように蓋をして、砂上に描いた喜びを事実であるかのように崇めている。

たしかに人生にはまたよろこびもありますが、そのよろこびを得ようと努めることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずと湧くものなのです。(中略)しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、目標であることもできません。それは結果に過ぎないのです。(V・E・フランクル『それでも人生にイエスという』)

 笑顔が目標であることはできない、といいかえてもいいだろう。では、おのずと湧くものであるといったとき、その湧くことの源泉はどこにあるのか。

法を宣べんと欲して欣笑を現ず。もろもろの法薬をもって三苦を救療す(『無量寿経』真宗聖典四頁)

その時、世尊、諸根悦予し姿色清浄にして光顔巍巍とまします。尊者阿難、仏の聖旨を受けてすなわち座より起ち、偏えに右の肩を袒ぎ、長跪合掌して・・・(同右、真宗聖典七頁)

 「欣笑」「悦予」ということは釈尊の上に現れることとして描かれ、その釈尊の喜びに阿難が出会う。ほんとうの喜びを生きた人物に出会うということから、真に喜びの心を伴った表情を湛えるような人生が始まるということがある、というのである。

[『崇信』二〇一八年一月号(第五六五号)「病と生きる(29)」に掲載]

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