第4回 苦悩の奥底にある問い(1)—ALS患者の問いと仏教の基本的問題領域

テーマ
最も大事なもの
要旨

ALSは様々な身体の能力を奪っていくが、ただ身体的な問題と捉えるだけではあきらかにならない問題がある。それは、生命は生きているのに、”いのち”が生きられないという苦悩、すなわち「生きる意味」を失うという苦悩である。そのことを特殊な疾患の特殊な事柄と考えず、我われ人間として生きる皆に対して、生きていく上でもっと大事なものは何かという問いかけと聞かなければならない。我われは何を人生にとって大事な意味として信じて生きているか。そしてその意味への信頼が崩れたとき、その事態をどう乗り越えるのかということは、人間であるが故に抱える問題である。それが、医療現場で直面する、医学が捉えきれない問題であり、仏教が扱う基本的な問題領域と一致している。

これまでの3回で、苦悩に向き合う態度を確かめた。一つには苦悩を確かめるという学びについて、二つには自分自身が問われるということについて、三つには、人間として生きるということについてである。これらを踏まえてALS患者の声の奥にある本当の問題は何かを確かめていきたい。それは仏教の基本的問題領域にもつながることがらであると考える。

 

ALS患者の問いかけ

2010年3月22日放送のNHKスペシャル「命をめぐる対話”暗闇の世界”で生きられますか」では、ALSを抱える照川貞喜氏と、作家の柳田邦男氏が対話する。照川貞喜氏は「身体は不自由でも心は自由」といって、病状が進行しても人工呼吸器をつけて生きることを選び、積極的に自身の言葉を発信してきた人である。その人がこうなっては生きていけない、という状況があるという。それがTLS(Totally locked in state, 完全な閉じ込め状態)である。ALSは全身の運動神経が障害される疾患であり、わずかに動く筋肉をつかってコミュニケーションツールを利用して意思疎通を図るが、そのわずかに動く筋肉も動かなくなり、全く意思疎通ができなくなった状態を言う。照川氏はこのようにいう。

動くことができなくて、意思の疎通もできなくなれば、精神的な死を意味します。闇夜に身をおくことになりとても耐えられません。そのときは呼吸器を外して死亡させていただきたく、事前にお願い申し上げます。

このようにTLSになったら命を終わらせてほしいと事前の意思表示をされた。それに対して柳田邦男氏は、本当に生きる道はないのか、意思疎通ができなくても生き続けたい、と思えるようになる道はないのかと問い続け、照川氏にこのような手紙を送る。

照川さんがご自分から意思を伝えることができない状態になっても、照川さんが尚も生きてそこに存在していることはご家族にとって、毎日の生活と人生の大きな支えになるに違いないという私の考え方について、どうお考えでしょうか。照川さんにいつまでも生きてほしいと心から願っているのです。それは私の身勝手な願いだとは十分に承知しているのですが、周りの人がそういう願いを持つことについて、照川さんはどのように感じられるでしょうか。

柳田氏は、意思疎通ができなくても生きてそこに存在していることに意味があるということ、そしてただ生きてほしいということを伝えられる。このような言葉の背景には、柳田氏の次男の自殺があった。息子が自ら死を選んだ、病気ではなかったが生きる意味を失い生きていけなくなった。そんな絶望の中を、本当に生きる道はなかったのか。そういう課題が、TLSの中を生きる道はないのかという課題と重なったのである。

私の受け持ちだったあるALS患者は、動く筋肉はわずかとなり、パソコンを使ったコミュニケーションツールで意思疎通を図っていた。ある日そのパソコンに「死にたい」と書かれていた。照川氏はTLSになったら死なせてほしいと言ったが、この方にとっては今の状態ではもう生きられないというのである。このALS患者の声を我われはどう聞かなければならないのか。

「死にたい」という声を、病の事実に対する単なる心理的な反応として抑うつ状態が起こった、という見方をしては問題の本質を見逃す。このことは既に第2回で確かめたとおりである。また、本人が死にたいと望んでいるのだと文字通り聞くのであれば、それは個人的な問題の範疇であり、問題を矮小化することになる。そうではなく、そこには、同じく老病死をもって生きる人間すべてに対する問いかけがあると聞くべきである。本当は命あるままに生きたい、しかし今が生きられない。人間には、生命は生きているにもかかわらず”いのち”が生きられなくなる、生きていることを喜べなくなるということがあるのである。したがって、「あなたにとっての生きがいは何ですか?あなたは、生活の中で何を一番大事なものにしていますか?それはどんな状況でも崩れないものですか?あなたはそれを失って生きられますか?」このような問いかけとして聞かなければならない。

 

信頼と疑い

たとえば「仕事ができること」が最も大事なものであると「信じる」とする。仕事ができることに人生の意味があり、仕事ができる私こそほんとうの私だと考えるとする。そうすると、もしALSの症状が進み仕事ができなくなれば、その最も大事だと信じたものは崩れる。そこで次に、たとえ仕事ができなくても「自由に動ける」ならば生きる意味があると「信じる」とする。しかしALSの症状が進み寝たきりなれば、その信じたものも崩れる。そして次にたとえ動けなくても「意思疎通ができる」ならば生きる意味があると「信じる」とする。しかしALSの症状が進みTLSになればそれも崩れる。そうして、これこそ「最も大事なもの」と信じてきたことが次々と崩れ、生きる支えになると信じられるものは周りを見渡してみても何もないという、「信頼の崩壊」が起こるのである。人はそれでもなお生きてゆけるのか。そういうことが問題となっているのである。この「信頼」ということについて宮下晴輝先生はこのように述べる。

衆生(老病死する身体をもって生命を生きるもの)という視野で考えると、信頼がないと生きていけない生き方をしているのは人間だけです。人間とは、真偽を問いながら生活する衆生なのです。
(宮下晴輝『はじめての仏教学 ―ゴータマが仏陀になった』p.57)

老病死する身体をもって生命を生きる衆生の中で、「信頼がないと生きていけない生き方をしているのは人間だけ」であるという。「人間とは真偽を問いながら生活する衆生」であるとはつまり、「信頼」「信じる」ということは、「人間」というあり方に深く関係しているということである。

アウシュビッツ強制収容所の極限状態を生き抜いたV.E.フランクルは、『苦悩の存在論』の冒頭にニーチェの言葉を引用する。

「人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。だが、苦悩そのものが彼の問題だったのではなくて、〈何のため苦悩するのか?〉という問いの叫びにたいする答えが欠けていることこそが問題であった。」(ニーチェ『善悪の彼岸/道徳の系譜』(ニーチェ全集11、信太正三訳))

この問題は『夜と霧』の中でも問われている中心課題である。いつガス室に送られ死ぬかわからない中を生きることは、急速に進行し次々と身体の能力が奪われていく神経難病の状況と重なる。なぜ自分はこんなつらい目にあわないといけないのか?どうせ死ぬのに、なぜ苦しい中を生きないといけないのか?このように苦しみの中を「生きる意味」を求めるがそれが見出せない。人間はたとえ苦しいことも意味があればできるということがある。厳しいリハビリも「仕事に復帰するため」など、「意味」があればできる。しかし意味がないことは簡単なこともできない。ただ朝起きるということもできなくなるのである。

つまり、老病死によって何を失うかと言えば、ただ身体的機能を失うというだけではなく、「生きる意味」「生きる喜び」を失うということである。今まで生きる意味だと思ってきたものに信頼が置けなくなる。そして、生きていく上で確かなものなど何もないという、疑いの中に投げ込まれる。この「意味への信頼の崩壊」が、TLSになればもはや生きられないという照川氏や、安楽死を望んだALSの女性、「人のものを全部持っていく」といった認知症の太田氏の苦悩の内実なのではないだろうか。そしてそれは個人的な問題ではなく、人間はみな人間であるが故に、そのことに苦悩する。人間にとって、生きる意味を失い、確かに信じられるものを失うということは、喜ぶことも悲しむこともできなくなるような、人生の根本的な問題といえるのではないだろうか。したがって同時に、信じるものなど何もないという疑いの中から、どうして再び歩み出すことができるのかということが課題となるのである。我われにとって、ほんとうに生きる支えとなる、信じられる生きる意味とは何か。それは医療現場で患者が直面する問題領域であると同時に、仏教が扱う基本的な問題領域と一致しているといえる。

 

「四門出遊」の物語に表される課題

そのことは釈尊の生涯の物語の中に見られる「四門出遊」の物語の中で語られる。カピラヴァストゥの城壁の中で王子として不自由なく過ごす、青年時代の釈尊、青年ゴータマは、あるとき園林へ散策に出かける。そのとき東の城門を出たところで老人に出会い、南では病人に、西では死人に出会い、北の門からでたときには沙門(出家者)に出会い、出家していく物語である。たとえば『過去現在因果経』では、病人に出会った場面をこのように描かれる。

その時、太子、慈悲心をもって、彼の病人を看、自ら愁憂を生じ、また問うていわく、「この人独りのみしかるや。余の皆なしかるや」と。答えていわく「一切の人民、貴賎あることなく、同じくこの病あり」と。太子、聞きおわりて、心に自ら念言す「かくのごときの病苦、普くまさにこれに嬰るべし。云何ぞ世の人、楽に耽りて畏れざる」と。この念を作しおわり、深く恐怖を生じて、身心の戦動すること、譬えば月影の波浪の水に現ずるがごとし。従者に語りていわく「かくのごとき身は、これ大苦の聚なり。世の人、中において、横に歓楽を生じ、愚癡無識にして、覚悟するを知らず。今、云何ぞ、彼の園に往きて、遊観嬉戯せんと欲する」と。すなわち車を迴し、還って王宮に入り、坐して自ら思惟し、愁憂して楽しまず。(『過去現在因果経』大正蔵3, 629c7-632a14, 大乗の仏道・資料編p.25-34)

青年ゴータマは、病の苦について、「一切の人民、貴賎あることなく、同じくこの病あり」つまり、出会った病人だけの問題ではなく、いかなる人間も病を逃れることはできないという、自分自身の問題、そして人間としての問題と受け止める。そして「坐して自ら思惟し、愁憂して楽しまず」とこれまで楽しんできたことが楽しむことができなくなる。これはまさにALS患者が、身をもって病の進行を目の当たりにしたとき、生きていることを喜べなくなったという事態と同じことがらを物語っていると言える。

この「四門出遊」の物語は、大乗経典である『無量寿経』においても簡潔に語られる。

見老病死、悟世非常、棄国財位、入山学道。(老病死を見て、世の非常を悟り、国と財と位を棄て、山に入りて道を学ぶ)(『仏説無量寿経』、真宗聖典 p.3)

ここに「老病死を見た」とあるが、これは先に確かめたとおり、ただ身体的な問題ではなく、「生きる意味を失う苦しみを見た」ということである。その次に「世の非常(無常)を悟る」とあるが、この「無常」ということが、ただ”形あるものは崩れるはかないものだ”というぐらいの意味であれば、なぜ人間は生きていることを喜べなくなるという事態に陥るのか、またどうしてその事態から再び歩み出すことができるのかという課題を展開することは難しい。「無常」ということを、外に見えるものが崩れていくという外的な問題ではなく、我われの内的な問題と考えてこそ、その課題を担うことができる。内的な問題とはまさに「生きる意味」の問題である。これこそが喜びであると信じてきたことが崩れるという問題である。では我われは、何を意味あるものとして信じて生きているのであろうか。まずそのことについて、次回は「無常」という言葉の意味を確かめながら考えていきたい。

 

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