死産の母

 これまで治らない病気のことを取り上げてきたが、もちろん病気が改善するということもあり、そこには喜びがある。病気になれば治したいと思うのは当然である。医療者の中にはその喜びがあるからやっている、という方も多いようである。

 しかし一方で、病気が治らず命を落とすということもある。それが残されたご家族にとって大きな悲しみであるのもまた当然のことである。ご高齢で、いわゆる天寿を全うされたといわれるような年齢であっても、どうして死んだの、といって泣き崩れる奥さん。すでに死亡宣告がなされ、息子さんの身体は冷えきり亡くなられたことがはっきりした後も、まだ死んでいないといって離れようとしないお母さん。大切なおじいちゃんをなぜ助けられなかった、と私を責めるお孫さん。そんな場面に会う度に、悲しみに向き合う、寄りそうと言っても、そのまえにもっと自分ができたことがあったのではないか、やはりこんな悲しみが起こらないようにしたい、悲しみなどマイナスでしかないではないかと思うものである。

 しかし、悲しみについてあらためて考えさせられることがあった。小児科医である私の弟と話をしたときのことである。小児科の中でも新生児の集中治療を行うNICUで働いている。手を尽くしても残念ながら死産になってしまうときの話を聞いた。そのときのお母さんの悲しみは計り知れない。そこで、母親が精神的に良い状態であってほしいということで、死産になった赤ん坊を抱いてもらうという試みをしていたという。しかし、臨床研究の結果では残念な結果が出ているという。「死産の新生児と触れあうことを奨励する行動は、より悪い結果に結びついた。死産の新生児を抱いた女性は、見ただけの女性よりもうつ状態が重かった。一方、新生児を見なかった女性は最もうつ状態が軽かった。」(Hughes P, et al., Lancet, 360(9327), 114-8, 2002 Jul 13. 筆者訳)。この論文によれば、赤ん坊と深く触れあうほどにうつ状態が重くなるという「悪い結果」となり、見もしなかった母親が最もうつ状態が軽いという「良い結果」だった、したがって深く触れあわない方が良いのではないかという結論である。

 果たしてそうだろうか。医学はうつ状態を悪化させないことを求める。実際うつは大変つらい症状である。しかし一方で、その母親はうつ状態になるほどに、赤ん坊のいのちを重く受け止めたとは言えないだろうか。うつ状態を単に悪い結果とし、その結果からさかのぼって赤ん坊との深い触れあいまで無意味なこととしてしまってよいのだろうか。その悲しみは、亡くなったいのちとの出会いを示す、かけがえのないただ一つの悲しみなのではないか。問題はそのことを確かめる場所があるかどうか、ということではないか。

 四門出遊の物語で、老病死の苦を見た釈尊は、沙門に出会い出家を決意する。その出会いが、一度は絶望した釈尊が力強い一歩を踏み出すことができるほどに大きな出来事であったのは、沙門が苦しみ、悩み、悲しみを無にしようとしていたからではなく、そこに苦しみ、悩み、悲しみの意味を確かめつづけてゆける場所がたしかにある、ということに勇気を与えられたからではないだろうか。

[『崇信』二〇一六年二月号(第五四二号)「病と生きる(6)」に掲載]