やさしさに潜む闇

「自分が幸せでなければ人を幸せにできない」ある医師がこう言ったことに対して、ずっと強い違和感を抱いていた。幸せという言葉の意味にもよるが、自分の欲求が満たされて余裕がなければ相手にやさしくできない、とも言っていた。そういう〝やさしさ〟は、果たしてほんとうのやさしさなのだろうか。

 こういう言葉の背景には、あたかも「境遇がよい」「能力が高い」といった「条件のよい私」がいて、そんな私が、「境遇が悪い」「能力が低い」といった「条件の悪い人」をたすけてあげる、そういう考え方があるように思われる。医療や福祉に携わる方に結構多い考え方である。そこに潜む大きな問題が、先日、障害者施設で大量殺人が起こるという大変痛ましい事件によって浮き彫りにされたように思う。

 この事件を起こした人物を、ただ単に特殊な悪人として報じられる傾向があるが、それだけで終わらせてはいけないだろう。彼は、身体に障害を持つ生命を価値が低い生命と決めつけ、苦しみながら生きるぐらいなら殺害した方が本人のためだ、というのが彼の理屈である。

 殺害に到るということは特殊であったとしても、そのような考え方はしばしば我々もしているのではないか。いのちを大事にと言いながら、人を見て「自分があんなふうになるなら死なせてほしい」と言い、自分自身が苦しい境遇に陥れば「こんなに苦しいなら死んだ方がよい」などと言う。それは「いのちの価値」を自分で勝手に決めつけて大量殺人を起こした彼と同じ理屈ではないか。健康でいたい、役に立つ人間でありたい、よい境遇でいたい、ということが誰もが求めることであるならば、その当たり前に自分にとって「よいこと」を求め「悪いこと」を避ける心の中に、「価値の高いいのち」と「価値の低いいのち」を二分する見方が潜むといえる。健康でいたいと思っても病気になり、よい境遇でいたいと思っても思いどおりにいかない境遇を生きなければならないのがいのち全体の相であって、固定した「価値の低いいのち」なるものが存在するのではないにもかかわらず。

 助けるという行為が、「特殊な人」に対して行う「特殊なこと」であってはいけない理由がここにあるように思う。あたかも固定された「役に立たない人」なる者がいて、「役に立つ私」がその人を助ける、ということであれば、役に立つか立たないかでいのちの価値をはかり事件を起こした人物と、「いのちの見方」という点でどのような違いがあるだろうか。

 平野修『やさしさについて』の中の漫画(三六頁)がそのことに気づかせてくれる。目の不自由な方に、手をお引きしましょうと手助けする人。次の瞬間、車が来たことに音でいち早く気づいた目の不自由な方が、手を引いていた人を助ける。

「『たすける』ということは、決して条件のいい人が、条件の悪い人を助けるということだけではない。(中略)生きていくということは「縁って生きる」のですから、必ずそこに『たすける』ということが起こる。(中略)『たすける』ということは、決して特別なことではありません。」

そういういのちの相を知らされて初めて、障害のあるなしに関わらない、かけがえのないいのちの尊厳に気づくことができる。それに気づかない我々を照らし出す仏智に出会わなければ、いつまでも自分が決めたいのちの価値の中で、自ら行き詰まり、他者を傷つけ続けるのではないか。

[『崇信』二〇一六年九月号(第五四九号)「病と生きる(13)」に掲載]