究極的関心事と日常的関心事のあいだで

 いつも定期受診される女性のことである。認知症と診断されているが、一見会話も普通にできるし、一人暮らしをしている。その日はなんとなくふらつくということであった。症状はあまりはっきりしない。このところ私自身の課題として、生きる喜びを失うという問題、絶望した者が再び歩み出すということはどうして起こるのかという問題、ティリッヒのいう「究極的関心事」ということが頭を占めていた。「人はパンのみにては生くるにはあらず」の問題である。

 しかしまた生きるためにパンが要る。たとえば認知症では自分の置かれている状況を把握しにくくなることがある。台風が来て物凄い風の音が聞こえるとする。それが台風のためだとわかるから落ち着いていられる。しかしそれが認識できないとしたらどうだろう。理由もわからずただ激しい物音が鳴る中にいるとしたら、その不安は計りしれない。そのような不安は必ずしも究極的関心事とは関係ないだろう。もっと直接的な不安である。しかしそのこともまた生活を脅かす。

 また遂行機能障害という症状がある。一見記憶などに問題がなさそうでも、目的をもった一連の行動を最後まで行なうことができなくなる。買い物や食事の準備など、やり始めても途中で止まってしまう。

 このように、究極的関心事だけを見ていても気づくことができないことがある。さまざまな知識と、豊かな想像力が必要である。しかし逆に知識と想像力があっても究極的関心事に応えることはできない。パンが必要であると同時にパンのみに生きる者でもない。

 この方は食事の準備ができなくなってきていた。最近はご家族が準備しているが、毎食できるわけではない。暑い日もつづいている。そこで脱水症状の可能性を考え、看護師に点滴を指示した。ところが点滴はしたくないと泣き出してしまわれた。脱水だから点滴をするということは了解できそうであるが、ここも想像力を働かせる。わけもなくよくわからない薬を点滴されるとすれば…。しかし混雑する外来では十分に話すことができなかった。看護師に任せてなんとか行なうことできた。するとふらつきがなくなり、元気になったと言って帰られた。

 次の受診のときも同様の症状があった。今回も点滴をすることにした。ところがその日は取り乱した様子で、「そんなことするぐらいやったら死んだほうがましや。別にどうなってもええ。もう早よ死なせて。」といわれた。この日の点滴は無理にしないことにした。

 あとでケアマネージャーに話を聞くと、家族の介護だけでは限界があるため、ホームヘルパーの介入を試みているが、拒否されているという。夫を亡くしてから塞ぎ込みがちであったとも聞く。食事をとってもらうために、どうすれば受けいれてもらえるか困っているという。

 医療者も介護者も身体的な面ばかり考えているが、当の本人からすれば「そうやって元気になって何をするのか」「何のために生きるのか」ということが問題となっているのではないか。まさに究極的関心事である。一方で、閉じこもりの背景には、究極的関心事の問題を確かに根本に持ちつつ、認知症によりどんな不安の中にいるのかという日常的関心事についてわかってくれる人がいないということがまたあるのではないか。日常的関心事に寄り添う心に触れて、究極的関心事に向き合えるということがあるのではないか。

[『崇信』二〇一八年十月号(第五七四号)「病と生きる(38)」に掲載]