蘇生

「呼吸がおかしいからすぐ来てほしい」当直中、慌てた様子で看護師から電話があった。駆けつけると、まさに呼吸が止まろうとしていた。療養型の病院では、最期の看取りのときにそのように呼ばれることが多い。カルテにNo CPR(心肺蘇生不要)の意思が記載されていることを確認し、一人の人の最期を見届けさせていただく。この方も病状は進行し、寝たきりで、気管切開チューブ(喉を切開して気管にいれるチューブ)が入っている。看取りか思われたが、この方は違っていた。カルテにNo CPRの記載がない。

すぐに心肺蘇生を開始しなければならなかったが、夜勤の看護師一人では全く手が足りない。看護師にアンビューバック(手動で空気を送り込む器具)を持ってくるよう指示しつつ、近くの介護スタッフに別病棟の看護師を呼んでくるよう要請した。みるみる呼吸は弱くなっていく。看護師はまだ帰ってこない。数十秒が長く感じる。まもなく看護師が戻り、補助呼吸を開始する。しかし徐々に心拍は弱くなり、まもなく心臓が停止した。すぐに心臓マッサージを開始、同時に病棟看護師にはボスミン1アンプル投与を指示、たったいま到着した別病棟の看護師に補助呼吸を任せた。心臓マッサージを続けるが心拍は戻らない。もうだめか。半ばあきらめつつ、ボスミン追加を指示したそのとき、心拍が戻った。徐々に自発呼吸も戻ってきた。心肺蘇生は成功した。離れたところで見ていた介護スタッフが小さく拍手していた。

終わろうとしていた生命が救われた。もしカルテにNo CPRと書かれていたら、もうここにこの人はいない。もしもう一人看護師を呼んでいなかったら。もし心肺蘇生の手順を知らなかったら。一つ条件が違ったらここに生命はなかった。今、目の前に一人の人が生きている。良いことをした気になる。

しかし、もし本当に〝良いこと〟であれば、どんな場合でも常にこうするべきだろう。ところが逆に、蘇生せず最期を迎えることが〝良いこと〟になることもある。何をもって、心肺蘇生をするのが良い、悪いと決められるだろうか。その人の状態によって良いか悪いかを決めるなら、それはいのちの選別である。

一般的には本人の意思か、それが確認できなければ家族の意思が決定するということになる。そして心肺蘇生を望まない理由として、多くの方は「自然に最後を迎えたい」といわれる。では「自然に」とはどういうことだろうか。多くの場合、全く何もしないでほしいということではない。苦痛をとる治療はしてほしいというのが普通である。しかし、長く生きたいと願うこともまた「自然」といえるだろう。結局、心肺蘇生を望むにしても望まないにしても、自分が良いと思うとおりにし、悪いと思うことをさけることを「自然」といっているのではないか。

児玉曉洋先生は、『正信偈』に見られる「自然《じねん》」について、『末燈鈔』の「行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う」(聖典六〇二頁)という箇所を示されて、このように述べられる。

「善・悪の彼岸に立ち、一如の道理に基づいて、そのように在らしめられて在る」。この時、人は〝いのち〟を切り嘖《さいな》む一切の相対的価値から解放されて、絶対の尊厳性を獲得するのであります。それは無条件の救済であります。阿弥陀仏の本願を憶念するとき、ただちに、現生においてこの自然の道理によって、無条件の救済にあずかり、絶対の尊厳性を獲得するのであります。(『児玉曉洋選集第八巻』「正信偈響流」五五頁)

自分の思いを通して心肺蘇生を良いか悪いかと考えているうちは絶対の尊厳性ではなく、相対的価値の中にいるのだろう。願力自然の道理は、業道自然によって意思する私たちに、足下にある絶対の尊厳性に気づくようはたらきかけているといえる。私たちはどちらを選択するかの前に、どこに立って意思するのかが問われているのではないか。

[『崇信』二〇二〇年十一月号(第五九九号)「病と生きる(60)」に掲載]

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