顔(1)

「生きた一人の人間が理解を絶して無限に複雑であるならば、それを歴史の影響、社会の影響、等々に分解して何かわかったような気持ちになったとしても、何になろう。大切なことは、眼前の一人の人間が理解を絶して生きているそのすがたから眼を離さぬことである。」
(『児玉曉洋選集第1巻』「ドストエフスキイの主題によるバリエーション」一、顔)

あるきっかけでALSと診断されたBさん(仮)のことを思い出し記事にしようとした私は、児玉先生のこの言葉を前にして立ち止まった。目の前で理解を絶して生きた、その一人の人間の”顔”を見ているか。そう問われた私は、まずカルテを探した。カルテを見たからといって顔を見たことにはならないだろうが、少しでも思い出そうと思った。カルテの保存期間はとっくに過ぎていたが、幸い病院の倉庫に残されていた。黄ばんだ紙や、触れるとぽろっと剥がれるテープが経過した時を知らせる。今時電子カルテでなくて遅れていると思っていたが、おかげで当時の自分の手書き文字に触れることができた。

長年勤められている野上みち子さんという看護師がいる。私が医師になる前からこの病院におられる方だが、今年で辞められることになった。病棟で思い出話をしていてBさんの話になったのが、思い出したきっかけであった。

野上さんが言うには、Bさんは最初、病状が進行しても人工呼吸器をつけないという明確な意思を持って、書面まで用意して入院してきた。しかし私との関わりの中で、生きてみようと思われて人工呼吸器をつけることにされたのだという。もしそうであれば嬉しいことであるが、その自覚は全くなかったし、そう簡単なことではない。本当のところは、Bさんをして生きようと思わせたものは何だったのか。古いカルテを紐解いた。

入院してしばらくは医学的な記載のみであったが、3ヶ月ぐらいたったところから変化があった。以下にカルテの要約を示す。

3月26日 「体重が減少しているのをみると気持ちも落ち込む。何を支えにしたらいいかわからない。前向きにならなくてはいけないと思っている。悩んでも状況は変わらないので、この状況でどうしたら前向きになれるかと考えることが後世の人のステップになればいいと思う」などと文字盤で話される。

4月9日 朝から呼吸困難感。吸って吐ききる前に次の呼吸が来てしまう。肺の奥に弁があってつまる感じが朝からある。<呼吸器についての意思表示>現時点ではしない方針に変更なし。

4月30日 手足が動きにくくなってきた。右肩に痛みあり。寝るときに下になると痛みが強い。

このように、ここまでで筋力低下、呼吸障害が急速に進行していることがわかる。しかし根本的な治療方法が全くない。緩和治療として、痛みには薬剤などを利用したり、呼吸困難感にはマスク型の呼吸補助装置を使ったりして、症状の緩和を図る。ここに示したのは医師の記録だけであるが、看護師やリハビリスタッフ、薬剤師、栄養士、介護スタッフ、医療ソーシャルワーカーなど、さまざまな職種の人たちが関わっている。

しかしこれまで、症状が進行し時間が経過しても、呼吸器についての意思に変わりはなかった。ところが、5月に入ってから、少しずつ迷いが出始めたのであった。

顔(2)

ALSの進行は早い。5月に入り、Bさんの病状はさらに進行してきた。以下にカルテの要約を示す。(S: (患者の)主観的情報、A: (医師の)評価、P:治療計画)

5月21日 肺がつまった感じがする。動悸がする。

5月28日 S)(なぜ呼吸器をつけないことにしたかをたずねると)痛いのや苦しいのが長くつづくのはいやだから。しかし、最近、今まで関わってきたいろんな人から新薬ができるまで生きてほしいということを言われて、迷ってきている。役に立ちたいというのもある。(中略)今はもう少し頑張ってみようという気がでてきているが、まだ判断は難しい。
A)希望を持つということについて。新薬などで状態がよくなることが希望だとするならば、よくならないところに希望はないのか。老病死がさけられない中で何が希望になるのか。(中略)いずれにしても、人工呼吸器について迷いが出始めている。

6月4日 S)どこで自分を断ち切るのか。もっと生きたほうがいいのかわからない。親の年齢より早く死ぬとは。平均寿命ぐらいは生きたかった。まだ呼吸器については結論がでない。(中略)
P)呼吸器をつけてよかったという人とわるかったという人の話を少しした。さらにふみこんで、一緒に考えてゆく流れを作る。

その後、6月7日に人工呼吸器を装着することを決意。6月8日に装着したが、6月9日に急死された。

生きようと決意して生きられたのはたった二日であった。『ダンマパダ』の「不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている」(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)という言葉を思い出した。「不死」とは、老病死を前にしても命の輝きを失うことなく、自己自身を生きるということであろう。この二日間、Bさんは何を見ただろうか。私はその顔を見ることができなかった。

側で見られていた野上さんはこう振りかえる。呼吸器は絶対につけないと言って入院してきた人が、呼吸器をつけてでも生きようと決意されたところに、最近の医療が見失っている人間ドラマがあった、と。私は、生きようという意思につながったものは何だったのかと尋ねた。少し考えて、それは熱意ではないかといわれた。熱意ということになると、さらにその内容を確かめたくなる。医療者と患者ということを超えた、人間同士のつながりがあったということだろうか。

しかし、呼吸器をつけてまで生きる意味はないと決めた意思もまた、さまざまなつながりの中で生まれたものであろう。我われがもし、呼吸器をつけて生きてもつらいだけだ、不幸なだけだ、迷惑をかける役に立たない存在だと、存在の意味に優劣をつけるような見方をしているとしたら、知らず知らずのうちに、「生きたい」と言えないようなつながりの一端を担ってしまっているのかもしれない。

BS朝日「民教協スペシャル『生きることを選んで』」(2012年3月17日放送)という番組に出演した、報道記者の谷田人司という人がいる。谷田氏はALSに罹患し、人工呼吸器をつけて生きることを選んだ。人工呼吸器をつけないというALS患者を自ら取材し、生きてほしいと訴える。谷田氏は記者時代に、癌患者の三成さんという人を取材した。病の中を生き続けることの意味を、最後まで命を燃やした三成さんの姿から学んだという。しかしそれでも、さらに病状が進んで完全な閉じ込め状態(TLS)になったら生きる意味があるのか、と葛藤する。そのなかで、TLSの患者さんの取材をし、生きる意味を確かめる。

命尽きる瞬間まで、命を燃やし尽くしたい、と言えるようなつながり——それは、実際に命の輝きを失うことなく、命を燃やし尽くした一人の人の”顔”を見るところに生まれるのではないか。

「この世界が汚濁と困苦に満ちていようとも、そこに喜ばしき一つの顔があるならば、我らの生活は立つのである」(『児玉曉洋選集第1巻』「ドストエフスキイの主題によるバリエーション」一、顔)

Bさんはどのような顔との出会いがあったのだろうか。私はどのような顔と出会っているだろうか。

[『崇信』二〇二一年一月号(第六〇一号)「病と生きる(62)」に掲載]

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