第2回 苦悩に向き合う態度(1)—ALS患者の苦悩を通して

テーマ
「問われる」ということ
要旨

我われは苦悩を知らないままに、医療現場に起こる問題を議論し、苦悩する者の心を置き去りしている。そこには苦悩を対象化して「問題」を知っているつもりになっているということがある。そこに欠けているのは「自分自身が苦悩をどう生きるが問われていない」ということである。仏教は苦悩を対象化して分析するのではなく、苦悩に向き合う態度自身を問うものである。

今回は筋萎縮性側索硬化症(ALS)という疾患を通して考えていきたい。ALSは全身の運動ニューロンが障害される進行性の疾患であり、治療法が見つかっていない神経難病である。進行すると四肢の運動障害だけでなく、嚥下障害、構音障害、呼吸障害などが出現する。そのため、動けないだけでなく、食事や会話ができなくなるなど様々な症状が出現し、進行すると大変過酷な疾患である。意識は障害されないことがほとんどで、その苦悩の心境を語られることも多い。筆者は脳神経内科医でありALSをはじめとする神経難病が専門領域であるため、ALS患者を診察する機会が多く、そのような厳しい状況のなか病に向き合い生きる姿を日々の診療で目の当たりにする。

 

苦悩を知らないままに議論している

そんなALS患者とALSに関わる者にとって、筆舌に尽くしがたい痛ましい事件が起こった。2020年7月23日、京都市に住むALSと診断されていた女性に薬物を投与して殺害したとして、二人の医師が逮捕されたのであった。

これに対する世間の反応として、「本人が死にたいほど苦しんでいるのだから、認めてあげないといけない」という本人の意思、死ぬ権利などを主張し、安楽死を認めるべきだとする意見が多い。一方、自ら死を選んではいけない、命は自分一人のものではない、といって安楽死は悪いことであるとする意見も少ないながら見られる。しかしいずれにしても、「死にたい」という声に対して、我われはどうしても外部から見て、死を選ぶことが「良い」か「悪い」かという「評価」をするのである。

しかし、「良い」と肯定することも、「悪い」と否定することも、どちらも「すでにその苦悩がわかっている」という前提に立ってしまっていないだろうか。苦悩を知らないままに、安楽死は良いかどうか、などと議論ばかり進めているのである。この「苦悩を知らない」ということはまず前回確かめたことであるが、苦悩を知らないままに議論をするということは、苦悩する人の心を置き去りにすることである。そしてその苦悩する心を確かめるに当たって、私たちは生命をどう見ているのか、人間の自由意思とはどういうことか、人と人が寄り添うとはどういうことか、といった様々な重要な課題があるにもかかわらず、それを十分に確かめることなく結論をつかんでしまうことになる。これらの様々な課題は後の回で少しずつ確かめていきたい。

 

問題がわかっているという思い込み

まず、苦悩をいかに知らないのかということを確かめておきたい。筆者が大学病院でALSの原因に関する研究とALSの臨床をしていたころのことである。知識としてはALSについてよく知っているつもりになっていた。しかしあるとき、ある患者から「あなたにはわからない」と言われた。私は疾患を「対象として」は知っていたが、私自身が病を生きるということがどういうことか、「主体として」知っていなかった。あるいは病を生きるということが、人間にとってどんな苦悩としてそこにあるのかを知っていなかった。

患者のもつ病の苦悩に対応するために、そこにある問題がいかなるものかと考えるとき、医学は—医学だけでなく一般的にも—、例えばまず身体的な問題があると考える。痛みがあるのであれば鎮痛剤を使い、動きにくいのであればリハビリをする。あるいは心理的な問題があると考えれば、病の現実に対して気持ちが落ち込んで「うつ」の状態になっている、と考えれば、抗うつ剤を使ったりカウンセリングをしたりする。あるいは社会的な問題と考えれば、家での介護に不安があるとか、経済的な観点からのサポートを考える。このように○○的な問題と考えることについて、V.E.フランクルは『苦悩の存在論』においてこのようにいう。

現実がどのような(現実の)他の残りの部分に還元されるかに応じて、すなわち、なにに現実が還元されるかに応じておもに三つのニヒリズムの変種が区別できる。つまり生理学的現実に還元されると、生理学主義といった形のニヒリズムが現れ、心的現実に還元されると、心理学主義の仮装のもとに、また社会学的現実に還元されると、社会学主義の仮装のもとに立ち現れる。

いずれにしてもどの場合にも現実は、それが生理学的事実であれ、心理学的事実であれ、または社会学的事実であれ、単なる結果・所産に縮小してしまう。しかし、単なる結果が認められるところでは志向性を認めることができず、志向性の認められないところでは意味を認めることができない。存在はその意味を奪われる。(V.E.フランクル『苦悩の存在論』p.8-9)

つまり「死にたい」という心を、例えば心理学的に見れば、ただ病のために起きた心理的な反応の「結果」表れたものに過ぎないということになる。そのことを「単なる結果・所産に縮小してしまう」と指摘している。このように○○的ということに還元することはいかに詳細に見たといえども、そのなかに「苦悩の意味」を見出すことはできない。「志向性」つまり苦悩に立って、その苦悩に対して何らかの意思をするということの内容を見ることができない。苦悩する者自身が「苦悩をわかってもらえない」と感じる元はここにあるのではないか。

それは苦悩を対象としてみて、分析して学び、何らかの○○的な要素に還元してみる見方をしている限り起こることであり、これが一般的な医学の学びの態度がもつ問題点ではないだろうか。生命としての人間をいくら還元してみても、そこには語りきれないものが残る。そのような人間が「私を生きる」こと全体をかりに”いのち”と表現するならば、生命は生きているが”いのち”が生きられない、という苦悩が人間には起こる。そのことを我われは、外部から分析し問題をわかったつもりになり、人間が生きるということのもつ根源的問題を知らない。問題も知らないにもかかわらず、あたかも答えを知っているつもりで、解決法を探していると言えるのではないだろうか。

 

自分が問われていない

このことについて、安田理深先生の言葉を通して考える。

実は自分自身の中にあるものを経文の中に読み取るわけです。(中略)我々は叫びを聞く耳というけれども、叫びを耳として持っているのでしょう。我われは叫びを耳として持っている。だから人の言葉を聞くのではないのであって、経典の上にかえって私の声を聞くのです。私を見出すわけですね。むしろ私には私を見出せない。経典の上にはじめて私の言おうとしてみるものがあるわけです。(安田理深『教行信証講義ノート—化身土巻(六)』p.20)

「叫びを耳として持っている」つまり、自分もまた困難を前にして立ち尽くし、「生命は生きているが”いのち”が生きられない」という叫びをもつ一人の人間して、自分が問われてはじめて他者の声が聞こえる、他者の問題に気がつくということがある。「経典の上にかえって私の声を聞く」つまり、自分自身はどんなことに行き詰まり、老病死は自分から何を奪っていくのか、という私自身の問題を経典の中に聞いていくということがある。自分で自分自身を知ることは難しい。経典を読む、他者の声を聞くということを通して、自らが問われ、自分を知り、人間を知っていくということがある。そして逆に、自らが問われ、自分自身を知ることが他者の声を聞くことになるというのである。自分が問われずして、他者の問題を対象化して捉えようとする態度が、問題に向き合うことを妨げ、他者に寄り添うことを妨げているということがあるのである。

 

現代版「六師外道」—自分が問われていない—

このことは、仏教の経典が伝える「六師外道」の伝承のなかに語られていることと関係があると考える。六師外道とは、釈尊が生きた時代の仏教以外の代表的な沙門を指す。沙門とは、出家して道を求めた人たちのことである。仏教以外の沙門も、仏教と同じく「苦」を課題とし、苦からの解脱を課題とした。しかしその態度、到達した結論が違った。例えば六師外道の一人、アジタ・ケーサカンバリンの説について『沙門果経』にはこのようにある。

大王よ、布施とか祭祀とか供物とかはなく、善行悪行の結果や報いというものもありません。この世もなく、あの世もありません。母もなく、父もなく、化生する生きものもないのです。また、この世で、正しく行い、正しく実践し、この世とあの世を自ら知り、直証して、説き示すという、沙門やブラーフマナは存在しないのです。この人間は、四つの要素からなっています。人がいのち終えるときに、地は地の集合に入り帰って行き、水は水の集合に入り帰って行き、火は火の集合に入り帰って行き、風は風の集合に入り帰って行き、知覚機能は虚空に移り行くのです。(『長部経典2  沙門果経』Dīgha Nikāya 2, Sāmaññaphala-sutta, vol. 1, pp. 47-86、現代語訳は『大乗の仏道』資料編p.17より)

アジタ・ケーサカンバリンは人間を四つの要素からなると考える。この考えは現代人の見方からすれば素朴であるが、先にフランクルの『苦悩の存在論』で確かめたように、人間の苦悩を○○的問題に還元する考え方は、現代版「アジタ」とも言える共通点があるのではないだろうか。アジタは「善行悪行の結果や報いというものもありません」などといい、人間の行いには何の意味もないという。「母もなく、父もなく」とは尊敬すべき人物などというものはないということである。人間を要素に還元して、そこにある意味を失い、尊敬すべきものを失っていくということは、六師外道の問題だけでなく、現代にも当てはまることである。その問題の根本にあるものは、人間のいのち、人間の苦悩を対象化して分析するのみで、「自らが苦悩の中をどう生きるか」と問われていないということである。対象化して観察するのではなく、その観察している枠組み、態度自身を問うのが仏教の学びである。