人生に喜びはあるか―医療現場の問いと仏教の問い―(2)

二つの転機

 僕は医療現場で抱いた自信のようなものを二度くずされたと思っているのですが、一度は患者さんから、そして二度目は仏教を学びに大谷大学に入って先生に出会ってからだと思っています。一つは、先ほどの患者さんからの「あなたにはわからない」ということばをとおして、病を生きるということの何を知ったつもりになっていたのか、患者さんの声を聞くといって、いったい何を聞いてきたのか、寄り添うといって何に寄り添っていたのか。そういう問いです。
 しかし、ここで問われたといっても、あくまでそれは対象としてというか、患者さんの問題にどう向きあうのか、という問われ方です。何をわかっていないのか、何を聞いていないのか、という、「何を」という対象ではなくて、その聞いている自分自身を問われることはなかった、それは仏教を学んで初めて問われたわけです。ご本人がおられるところでお名前を出すのですが、宮下先生に出会って「君自身はどうなんだ」と問われたということがありました。
 病気がなおらないという問題は、その人だけの問題であって、その人と代われるわけではない、その人にしかわからない、というところを越えられないわけです。どうしても個人的な問題、というところを越えられないわけです。けれども患者さんの問題というのは、君自身が生きるということの問題でもあるのではないか。そういう問われ方というのはこれまでしてこなかったわけですね。

対象としての問い — 問題がわかっているという思い込み

 ですから、問われる、問われる、といっても、何が問題か、その問い方が医療の世界で過ごしていても、わからないわけです。わからないというか、問い方は一つしか無い、わかっているという前提なんです。つまり問題は病気であって、問題を解決するためには病気を治すしかないわけです。だから研究をする。僕も大学病院でALSの研究をしていました。
 じゃあ治らなければどうするかといえば、いま起こっている問題をまず分析するんですね。例えば、ALSで寝たきりであれば、痛みがでてきたりする、そういう身体的問題を解決しようとする。また、病を抱えて精神的に気持ちが落ち込んでいる、そういうように心理的問題と考えれば、抗うつ剤を処方する。介護について心配しているんじゃないか、と社会的問題と考えれば、介護サービスとか社会制度を利用できるようにするとか、そうやって、多角的に考えるのが大事だ、というふうに教育されたりもするわけです。だから、病気は解決できないまでも、問題は把握しているという認識でいる。だから、その問題を解決するためにはどうしたらいいか、「解決法」がわかっていないだけだ、とそう考えるわけです。
 だから「問題」にとどまる、問題を問いなおす、ということはしない。問題はわかっているという前提で、だから答えもわかっているという前提で、解決法ばかりさがすわけです。
 ALSという病気は非常に過酷で、何度も「死にたい」という声を聞いてきました。今月号(三月号)でも書きましたが、目線だけで文字を入力する。非常に時間がかかる。そうやって「死にたい」という文字を残されたのを見ました。それに対して、カルテには希死念慮がある、精神科に相談を、とか書くわけです。病気に対する心理的反応だとみる。果たしてそうなのか、という疑問がありながらも、問題をどう見ていいかわらない。動けなくなって、家族に迷惑をかけてまで生きていたくない、と言われたときに、それを、みんな、介護サービスを入れたら解決するような社会的問題と考えるわけですが、果たしてそうなのか。ほんとうに問題をわかって議論しているのか、という疑問がありながらも、それをどう尋ねたら良いかわからない。今は振り返ってわからない、といっていますが、そのときは、それでわかったつもりになっているわけです。

問いにとどまる

 ALSということでいえば、皆さんもまだ記憶に新しいと思いますが、京都で事件がありましたね。京都市に住むALSと診断されていた女性の求めに応じて、二人の医師が薬物を投与して殺害したとして自殺幇助ということで逮捕されました。この事件のあとに、いろんな人がいろんなことを言うのを見るわけです。本人が死にたいほどつらいことだったんだから、認めてあげないといけない、安楽死は賛成だという意見が結構多い。しかし逆に、自ら死を選んではいけない、という意見もある。しかし、良いと肯定することも、悪いと否定することも、どちらも「すでにその苦悩がわかっている」という前提に立ってしまっていないか。わかっている前提で議論ばかりしていないか、ということです。
 それは仏教を学ぶ者もそうなってしまっている場合がある。問題をわかったつもりになっている。あなたの問題はあの書物の、あそこに表現されている、これですね、とわかったつもりで語る。そういう語り方に対する違和感というのは、ずっと持っていました。

 これは大谷大学に入るときの面接のことでしたが、これも崇信には書いていませんが、何を学びたいのか聞かれて、『歎異抄』に「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とあるが、それがわからないから、そういうことを学びたいといった。ALSで全身が動かなくなって、もう生きることが苦しい、と言う状況で、念仏もうさんというこころが果たして起こるだろうか、起こるとしたら、それはいったいどういうことなのか、と。そういう思いがあったものだから、そういうことをいったのです。真宗学のある先生が、詳しくはなにをいわれたのかは覚えていませんが、たぶん聖典の言葉を引用して、それはきみこうだよと、というような語り方で語り始めた。しかし、その横におられた仏教学の先生が、すこしそれをさえぎるようにして、いや、そこが問題なんだ、そこが難しいのだといって、その問いにとどまって確かめていくべきだというようなことを確かいわれました。それがあとから思えば宮下先生だったのですが、たぶん覚えておられないと思いますが、そういうことがありました。

問いにとどまるということは痛みにとどまるということ

 すこし真宗学の先生にたいする批判めいたことをいいましたが、それは自分がそうなったし、そうなりやすいことを実感するからいうのですが、やはり中途半端に仏教を学ぶというのはこわい、という出来事があった。
 仏教をまなんで、自分なりにうなづくことがある。それを医療の現場で生かそうとして、仏教の話をする。仏教は、自分の思いに飲み込まれず、いのちをそのままに受けとめ生きていくことができる、事実に立ち上がることができる、仏教はそんな教えだ、というような思いで、「生きていることを喜べるようになってほしい」というようなことをいったときに、それに対して、非常に悲しそうな眼差しをされた。そのことの意味がなかなかわからなかったが、あるとき清水哲郎『医療現場に望む哲学』を教えてもらい読んだときに、気づかされました。

では逆に「人間は死んだらそれで終わりだ——自分はまだ死にたくない」と死を受け入れたくない人がいたとして、その人の「死んだら終わり」という状況把握をどう評価したらいいだろうか。少なくとも私たちはそれをマイナスに評価することはできない——そうした状況把握が適切ではないと誰が言えようか。またそのことでその人が悲しんでいるとして、その悲しみはないほうがよいと、死に直面しても歓びの日々である方がよいと、誰が評価できようか。悲しいのは当たり前ではないか。それを「スピリチュアル・ペイン(痛み)」というならば、痛いのが普通であって、ことさらその人に援助の手を伸べなければなどと思う方がスピリチュアルに思い上がった姿勢であろう。

『医療現場に望む哲学』清水哲郎

「悲しいのは当たり前ではないか」身体が動かなくなって、今までできたことが何もできなくなって、それは悲しくて当たり前ではないか。その悲しみにとどまらずに、その苦悩の外側から眺めて、仏教で学んだことをつかって、あなたの考え方がここが問題だ、こう考えれば苦しまないはずだ、というように、勝手に問題と答えをつかんで、苦悩をなくそうなくそうとしていたのですね。

 しかしほんとうは問題も分かっていないのではないか、問題すらわかっていないのに、答えをつかんでそれを振りかざすというか、わかっている立場から救おうとしているわけです。「すくわれる」とか「助かる」とかということをわかったつもりで語る。けれども「問題」をわかっていなかったら最初から、出発点からずれている。「そう思えないからこそ苦しんでいるのだ」そういう声を聞いていない。だからあの悲しい眼差しは、「私の苦悩をあなたはわかろうとしてくれない」そういう声だったんじゃないかということですね。あまりにも自分は、自分自身の苦悩、自分がどういういのちを生きているのかということを知らなさすぎる。知らないのに、何を伝えるとか、どうやって相手に寄り添うかとか、そういうことが先に来てしまっている。苦悩を確かめようとしていない。問題を確かめてようとしていない。苦悩にとどまって、悲しみにとどまって、確かめる、そういう力というか、勇気というか、それをいただく学びが仏教なのに、仏教を学ぶ事が逆に、そこから遠ざかるような学びをしてしまっていたわけです。

 だから今日はこのようなタイトルになった。「人生に喜びはあるのか」仏教は「人生に喜びがある」といっているのではないか、「本願力にあいぬれば空しく過ぐる人ぞなき」といっているではないか、といわれるかもしれない。しかしそれが本当に、どんな状況であってもそういえるのか、というところにとどまって尋ねたいわけです。

 仏教をまなんでも、やはり問題をどこかで対象化してみているところがある。対象化というと硬いですが、まあ他人事です。なかなか自分のことになっていかない。そして結論を決めてしまっている。実際の苦悩に止まれない。
 例えば終末期医療の勉強会とかに行くと、こうすれば笑顔になりました、とかいう。介護とかでいえばこんなレクリエーションをしてみんな笑顔で元気にやってるみたいな写真を施設の宣伝に使う。笑顔がプラス、そうで無い状態がマイナス。マイナスをプラスにする。問題と答えがあって、いろんなテクニックを使って、プラスにする。そういう発想です。

 病気はマイナスのこと、苦しみは当然マイナスのことで、それを無くそうなくそう無くそうとするわけです。ある意味で病気を治そうとするのは、あたりまえですね。病院に行って病気を治そうとしてくれなければ困ります。僕も病気をなくして、笑顔になってもらいたい、ALSの研究をして、病気を治したい、とおもってやってきたわけです。もちろん、そのために手を尽くすということを否定するわけではありません。しかし、苦しみはマイナスなもの、無くすのがプラスだ、答えだと決めてしまった途端、その苦しみは、無意味なものになる。その苦しみがどういうものかということを尋ねなくなってしまう。

 ALSの患者さんは苦しみながら亡くなっていった方もあります。では、その苦しみは無意味なものだったのか、そういうことを思うわけです。それも人間にとって大事ないのちの姿だったんのではないか。しかし医療の世界ではそれはマイナスとしてしか捉えない。だから、苦しみ、悲しみを抱えて生きるということを尋ねる場所がないんです。行き詰まったということを話しする場所がない。

 それは日常でもそうです。そんな顔してないで笑いましょう、という。そんな顔してないで笑いましょう、というとき、そんな顔をしている理由、心を尋ねることをやめる。いろいろ思い悩むことがあって、暗い顔をしていると、そんなうっとうしい顔をするなといわれたことがあった。この人には絶対相談しないと思ったものでした。

 介護の現場なんかでも、楽しいレクリエーションでもして笑顔になったら、よかったね、という。そんなふうに、医療や介護の現場から日常まで、何かちょっとした小手先のテクニックで笑顔になりましたというなかで、何かごまかしてしまっているものがあるのではないか。苦悩の奥底にある声、もっと人間の深い所から出てくる、心の叫びのようなものを見逃してしまっているのではないか、ということですね。

 だから「問いにとどまる」ということは「痛みにとどまる」ということもあるのではないかと思うわけです。しかし問いにとどまる、痛みにとどまって尋ねるといっても、どう尋ねたらいいかわらない。この力をいただくのが仏教ではないかと思います。
 
 そういう基本的な姿勢が仏伝の中にあらわれています。(続く)

[『崇信』二〇二二年六月号(第六一八号)に掲載]

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